人が忘れるのはそれを思い出す時である

人が忘れるのは、それを思い出す時である。

(以下、基本的にポエムなので特に何を言いたいという事ではないですし、学術的に見えるところもあるかしれませんが真面目に調べたわけではないです)



何か面白い話を思いついたのだが、その話をしないままそれを忘れてしまった。とする。このとき、忘れてしまったと思うまでは、「何か面白い話を思いついた」という事すら忘れている。それを思い出す、あるいは、思い起こす事が出来たからこそ、話の中身を忘れてしまった事に気付くのである。


忘れるというのは忘れていると気付く事である。忘れてしまっているかは思い出そうとするまで分からない。記憶はシュレディンガーの猫のようだ。


自分では忘れていると思っていた事でも、インパクトの大きい切っ掛けを与えられれば、それで思い出すこともある。写真を撮ってアルバムにするのは、それを狙ってのことだ。我々の脳内では、映像の記憶とエピソードの記憶がシナプスで結びついているのだろう。


「今忘れていると思っていることを、もっと大きい刺激を与えられれば思い出すかもしれない」ということは、自分が忘れているというのは自分で証明できないということを意味する。何をしても思い出せないかどうかは自分では判断することは出来ない。「人間の脳は体験したことを全てを覚えていて、我々はそれを思い出せないだけだ」という話を聞いたことがあるのだが、これは本当かどうか証明できないが、上記のように考えるとトートロジーとして正しいと言える。



人間は覚えていられるのに忘れるのだなあと考えると、忘れるという事が肯定的な意味を持つような気がしてくる。「使わない筋肉が衰える」ということがエネルギーの消費を抑えるために獲得した機能であるように、忘れるという事も我々が獲得した機能だ。そう考えると、忘れるという事で随分我々は恩恵にあずかっているように思える。過去の嫌な事をいつも思い出していてはやる気が出ないだろうし、いつか死ぬことをいつも考えていたら人生が無意味に思えてくる(死ぬのは未来の事だが、それを考えたのは過去の事だ)。「認知症は迫り来る死の恐怖から逃れるためになる」という説を聞いた時、それも悪くないかもしれないという気がしてきた。


私は10年前からブログを書いていて、過去の事はブログで検索をかければ相当思い出すことが出来る。そこには私がいつもいて、話に付き合ってくれる。これはWebに公開されているので、等しく私以外の人も私の記憶に触れることが出来る。私は写真はほとんど撮らないが、自分の思った事を言葉にして残すことには熱心であるし、言葉なので検索も容易であるから、普通の人より過去を身近なものとして感じているのではないかと思う。


現在は私の思った事、つまりわざわざ書こうと思った事が思い出せるだけだが、これが、Googleグラスのような映像や音声を記憶できるものが常に稼働している状態になったらどうだろうか。過去が現在と同じ鮮明さで感じられるようになった時、それは過去と現在の垣根が壊れたことにならないだろうか。過去はなくなり、それは現在に統合されるのではないか。


しかし人間はそのようなことに耐えられるだろうか。我々は忘れてしまうから仕方なく忘れているのではなく、忘れたくて忘れているのではないだろうか。Googleの検索結果から前科を消してくれという話があったばかりだが、我々にとって過去を覚えている、覚えられているという事は、えてして辛い事なのではないだろうか。そして覚えておきたい事だけ、写真を撮るなり日記を書くなりして、自分に都合のいいものだけ残すのが人生を楽しく生きるコツだったのではないだろうか。


アンパンマン体操でもあったな。
「もし自信を無くして挫けそうになったら いい事だけいい事だけ思い出せ」



知人に記憶喪失の人が居る。詳しく話を聞いたことはないのだが、私が軽い気持ちで「記憶を失った状態を体験してみたい」と言ったら、「いいもんじゃないですよ」とだけ言われた。そうなのかもしれない。自己同一性、つまり自分が自分であることを担保しているのは記憶であろう。しかし生まれる前の記憶がないのはよくて、生まれた後の記憶がないと辛いのと言うのも、なんとなく不思議な感じがする。ああ、不謹慎かもしれないが、私はまだ体験してみたい。かといっていきなり後頭部を殴りつけるような事はやめていただきたい。


「世界五分前仮説」というWikipediaのページを最近見つけたのだが、世界は五分前に生まれたもので(一瞬前でもいいのだが)、その五分前にそこまでの記憶を持って生まれた、ということと、現状が違うという事を証明できない、という話である。そしてこれは因果律の否定の話でもあるようだ。


因果というのは人間が作り出している感覚であり、客観世界には存在しないんじゃないか。過去と未来というのも人間が作り出している感覚であろう。過去が現在に統合されるということは先の例で既に少し分かった気がする。では未来が現在に統合されるとはどういうことだろうか。世界には量子力学的ランダムがあるのでこの先の事は完全に予測は出来ないことになってる。しかし、そういう話だろうか?


未来が現在に統合されるのは楽しい事なのか怖い事なのか。自分でも何を言っているのか分からない。パンドラの箱の教訓はどういうものだったろうか?最後に希望が残って、未来の分からない人間はそれを目指して苦しみ続けるのだったか?未来が分からないから希望を持って生きることが出来るという話だったか?