ルールが多いのはコストが大きい

ルールが多い事ってコストだと思うのです。ルールが多いというのは、制限が多いという事ではなくて、法律で言えば条文の項目数及び本文の長さ的な意味です。


例えばソフトウェアをインストールする時に、「以下の契約に同意したと見なします」とか言われる奴なんか全部読めないに決まってるし、全部読む人は正直どっかネジが外れてると思う。いや、全く悪くないしそういう存在に我ら凡人は依存しているからぜひ続けて欲しい。…いやそういう話じゃなくて、ルールを増やせば増やすほど、ルールの把握が難しくなって、ルールを設定する側が好き放題書いても気づきにくくなっちゃうし、ルールを守ってもらいたい側からしても、読んでもらえなくなっちゃう。


だから、ほんとにたまにしか起きないような事までいちいち条文にするというのは、社会コストを無駄に増大させるばかりでデメリット方が大きいんじゃないかと思うんです。


これは、「ルールはどう決めるのが良いか」という議論において、「ルール文章が規定する本当に言いたい所の実態としてのルール」から一段メタな要素として、ルールの示す内容に関係ない所でもルールの良し悪しの基準があるだろうが、そういう要素が内容に影響してもいいのだろうか?という話になるわけですが、このことに対する基本的な考え方を私は持っていないこと気が付きました。この議論は当たり前なんでしょうか。


なんとなく、法律というものに「専門家しか分からない」と感じていることが多い気がしていて、それはとにかく法律が多すぎるからなんじゃないかと思うわけです。法律というのは(自分含む他人を縛ることで)本来自分を守るために、自分のためにあるのだと自然に思うには程遠い状況で、なんとかなんねえもんかなと思ったというお話でした。


ちなみにまだ書いてないけど元々考えていた話は、「多様性を認める社会」ってのは、「そんなの常識だ!」という言葉に頼らない社会だと思うから、多様性を認める社会を実現しようと思ったら明文化して第三者的にルールを示せる方向にシフトしなければならない(アメリカみたいな訴訟社会に近づく?)、という話で、今回の話はその片輪としての、「明文化が少ない事のメリット」という位置づけなのでした(聞かれてない)。