暗記がしたい

「暗記がしたい」と最近思うようになった。


歴史の勉強をする時にこんなことを言われなかっただろうか。「覚えるためには、それぞれの項目を丸暗記するのではなく、歴史の流れの中に項目を位置付けなさい」と。しかし何かがおかしい気がする。歴史の勉強の本当の目的は流れを知ることではないのだろうか?そもそも、項目を知ることは流れを知らなくても出来るが、流れを知るためには項目を知ることは必須なのではないだろうか?


項目の名前は、それ自体を知るためにあるのではなく、それを使って知識同士を接続するためにあるのではないか。「AならばB1である。B2ならばCである。よってAならばCである」と言う為には、別々のどこかに出てくるB1とB2が同一であることに気付かないといけない。


私はもともと「暗記否定派」だったので、暗記をないがしろにしてきた。よって例えば国の名前とそれがどこにあるかとかを致命的に覚えていないので、そういう知識が繋がってくれなくて、これは非効率なのではという気がしてきた。そこで、がっつり、中学生がやるような暗記をした方が良いような気がしてきた。……やってないけど。


以前の私は「インターネットが発達して、知りたい事は知りたくなった時に検索で見つけられるようになったため、暗記の価値は減った、あるいは無くなった」と思っていた。そして、他にもそう思っている人は多いのではないかと感じている。しかし、ちょっと前からそう単純な話でもないと思うようになった。なぜなら、そもそも「知識を得るには知識が必要だから」だ。とすると、暗記はそれ自体が目標なのではなく、さらなる知識を得るための下準備だ。


極端な例で考えてみる。例えばある言語を習得しないと、その言語で書かれた文章を読む事は出来ない。英語が読めない人は、英語の文献にアクセスしてそこに書かれている知識を得る事が出来ない。もちろん、日本語が読めない人は日本語で書かれた文献を読む事は出来ない。では我々日本人は、日本語で書かれた文章であれば読む事が出来るのかというと、どんな文章でも読める訳ではない。自分の専門外の専門書を読んでみれば、ちっとも分からないし読めない事がすぐに分かる。日本語でも、知らない単語ばかりの文章は読めないのだ。


というわけで、暗記がしたいと思うようになったのだが、今書いてても良く分からない事がある。インターネットの検索機能によって暗記しておかなくても良くなったことというのは確かにある気がする。「暗記しておくべき知識」と「暗記しなくていい知識(必要になったら検索で探せばいい知識)」というのは、なんらかの基準で区別可能なのだろうか?これまでの話からすると、「知識を繋ぐような知識、ハブになるような知識」は暗記した方がよさそうと言えそうだ。しかし、それってなんだろう?