イスラム国を馬鹿に出来ないはずの日本

以前、NHK解説委員の出川氏によるIS(イスラム国)についての講演を聞く機会がありました。その中で、ISがイラク政府と戦う際の戦法の話がありました。どんな方法か。例えば、トラックを改造し、車体の周りに鉄板を貼り巡らせて、兵員輸送の装甲車のようにする。そのトラックの荷台に大量の爆発物を積んで、自爆攻撃を仕掛けてくる。こういう相手と戦うのは非常に困難で、イラク政府軍は撤退を余儀なくされてしまったようです。これを可能にしているのは、自爆テロをして死んでも良いという兵隊の気持ちですよね。そしてそれは、イスラム教の敵を倒して死ねば必ず天国に行ける、という揺るぎない信念があるから出来るのだということでした。


それを聞いて「やっぱイスラムの奴らとは分かりあえねえな」と思う人もいるのかもしれませんが、私は別のことを思いました。これ、まさに第二次世界大戦の時の日本じゃないですか。だってこれ、カミカゼと全く一緒でしょう。自爆ということもそうだし、死んで英霊となるという、死後の救済を信じているということも。


そこから私が想像したのは、我々(私を含むとは言っていない)が今イスラム国に対して抱いている気持ちと同じような気持ちを、連合軍側は日本に対して抱いていたのだろうということです。要するに「あいつらはキチガイの集団であり困った存在であり排除しなくちゃいけない存在だ」という気持ちです。実際、カミカゼ特攻する人や命じる人がキチガイでないと言い切れますか。日本はイスラムに負けず劣らず信仰心の篤い国だったんですね。 いや、信仰心を利用したというべきかもしれませんが。


もちろん反対側から見れば、そうまでして戦わなければならない理由があるのに、対等な存在としてではなく「排除」される対象として扱われる。そういう意味で、「テロ」という呼称は、排除してもいいという正当化をした場合の戦争の呼び方なのだと思います。「なんであいつらはただのテロ組織なのに『国』なんて名乗ってるの?」と思うということはそういうことです。実際彼らはただ世界に混乱をもたらそうとしているのではなく、領土を確保しようとしていたりと、国と呼んでも良いような活動をしています。


戦わなければいけない理由とは何かという点についても講演では触れられていました。ISにはフランスやベルギーといったヨーロッパの国からも人が参加しています。中東へ行くこともあれば、インターネットを使って遠隔で協力するという形での参加もあります。どういう人が参加するのかというと、中東からの移民の子孫が多いそうです。ヨーロッパではイスラム圏の人達への根強い差別があり(日本は移民が少ないだけで、差別は十分あるでしょうが)、同じ成績でも就職できないといったことが起こり、将来に絶望し、世直しをせねばとイスラム国に傾倒していくのだそうです。これって、私は正当な理由だと思います。これまでの歴史だって、虐げられていた人達による革命が成功したらその人達が正しかったという歴史が紡がれてきたものなのですから。


「なぜ戦争(テロ)などするのか。争いなんて愚かな人のやることだ」と思っている人は多いと思いますが(賢明なる私の友人達はそんなこと思って無いかもしれないですが)、それは現状維持で問題ない立場の人の発想であって、現状に問題がある人にとってみれば「現状を維持せよ」という命令は「格差を固定せよ」という命令と同じです。当然、格差の下の側に居る人はそれを受け入れられないし、その結果がテロになるわけです。もっと言えば、テロみたいな方法でしか風穴を空けられないからテロがあるわけです。だって、そんな自爆テロなんて楽しく生きてたらしたいわけないじゃないですか。


戦争もテロも同じだと私は思いますが、そういったものがなぜ起こるかと言えば、戦争やテロに身を投じる方がマシだと考えるような状況に追い込まれているからだ、というのが現在の私の理解です。つまり、戦争やテロをしたくならないようなマシな世界を作らない限り、そういうことは起き続けるということです。


で、これは日本の格差問題、貧困問題にもそのまま当てはまるんだろうなと思っています。貧困をその人達の努力不足のせいだということにしておくことは、テロに当たるような行動をする人を増やすことであり、裕福な人にとっても社会リスクの増大を招くことになると考えるべきなのだろうなと思います。