血液型差別

AB型はお断りとする施主のため泣く泣く辞退

阿部氏は血液型だけでなく、子どもの行動をじっくり観察しそれぞれの個性を把握すれば、個々に応じた接し方が可能となると指摘し「一人ひとりの生徒にあった対応をすると、みんなの先生ではなく、わたしの先生と思うようになる」と特性に合わせた接し方の大切さをユーモアを交え紹介した。

「子どもの行動をじっくり観察」するのであれば、はじめから血液型を保育に活用するなど必要なかろうに。個人を見ずに、その個人が属している集団(人種とか性とか国籍とか血液型とかね)のみを見る事が差別のはじまりなのだ。

血液型性格診断について、「酷い差別につながる可能性がある」とは思っていたのだが、実際のところ飲み会の与太話程度にしか使われてないとか、言及する本人も本気じゃないんだろうと言う安心があったので、そんなに目くじら立てて起こる事も無いんじゃないのと思っていたが、上の「AB型はお断り」なんていうのを真面目に言ってる人がいるとなると話は別で、本気で排除する方向に持って行くべきかなと思った。


最近、「『リア充』とか『※イケメンに限る』という言葉が、最初は自虐のギャグとして使われていたのが、予備知識の無い人が見てマジに捉えて、本当に恨みつらみを言っている場合がある」ということを考えたのだが、そういう風に「分別のある人のギャグ」というのを、分別の無い人は理解できなかったりする。


だから実は、そういう理解するのに分別が必要なギャグを言っていい場面というのは制限されているはずだ。これは子供の前で卑猥な話をしないというのと同じで、普通の事だ。つまり、馬鹿の前で血液型性格診断の話(血液型と性格に相関が有るという話)をしてはいけない。


ここでいう馬鹿とは、「科学」というものへの造詣の無さのことだ。残念な事に、世の中の「科学」というものへの理解度はあきれるほど低い。もっと言うと、対象によって科学的態度をとったりとらなかったりする人の心理の不可解というのも興味が有るのだが、それは今回は置いておく。科学的態度というのがどういうものかというのも省くが、一言で言えば(Iwatam氏の言葉を借りれば)、「科学的に説明できるということが、唯一解明できたということである」ということになる。


例えば、飲み会で血液型性格診断の話が出たとする。で、会話を続けるかどうか判断する言葉を考えてみるとこうなる。「血液型性格診断って優位差が無い事ってとっくに結論出てるけど、それでも何か面白い話ができると思って話そうとしてるんだよね?」いかんせんユーモアに欠けるが、こんな感じだろう。私の普段接しているコミュニティでは、これを言っても別段問題ない。しかし、この世の(日本の?)コミュニティの大体90パーセントでは「はあ?つまんない奴」と返されるというのが現状であろう(90パーセントというのは調べたわけではなく体感)。


例えば「血液型性格診断のようなものはなぜなくならないのか」といった点に目を向ければ、血液型性格診断を題材に有用な議論が出来る。しかしそれは血液型性格診断というものは科学的になんの根拠も無いものであるという了解の元にのみできる議論である。そういう話は、例えば自分のいる研究室では普通にできる。


しかし大体のコミュニティでは、血液型性格診断を否定してしまうと、それは「つまんない奴」ということなる。ここで、そういうコミュニティには、血液型性格診断を信じてる人しか居ないというわけではない。本当は信じていない人も話をあわせているのである。本当はそういうクソくだらない話題を持ちかけるほうが排斥されてほしいと思うわけなのだが、科学的態度のほうが排斥されている。これは、科学的な態度というのは頭の固い人の持ち出すものだという、ある程度の共通認識があることから来る。


問題を整理すると、私の観点では、血液型性格診断は差別的な問題を孕んではいるが、「差別的だからやめよう」と叫ぶのは本質的な解決にはならない。科学的な態度をとることがかっこいいという風潮にを広めて解決すべきである。それがもし非効率で、一刻も早く撲滅しなければならないぐらい差別が酷い場合(上記の例はもうそうなってると言ってもいい)は、「差別だ」と訴えるほうが早いということはあると思う。


そもそも、「会話ができる」というだけのスキルが、尊重されすぎなのである。本音で話せない友人がいくら増えてもしょうがないと思えるのは残念ながら一部の恵まれた人だけで、みんな寂しさにあえいでいる。そんな「足元を見られている」状態では、好き放題相手の言葉を否定したりなどできないのである。


また、科学的態度をとることがなぜかっこいいことにならないかと言えば…色々理由は思い当たるが、例えば、先生の言うことがさっぱり分からなくて知識人に対する不信感を募らせたとか、学業は強烈な順位付けをするので、


「頭の悪い人とも会話ができる」という頭のよさの基準がある程度認識されているのだ。

(疲れたので中断)