宗教が「理解できないもの」という意味で使われているなら、宗教が排斥されるのは当然である

ちょっと前に、大学で「宗教活動を禁止してるってのはグローバルな大学になりたいって言ってるのにまずくない?」「学内に宗教学の先生もいるはずなのに、そういう方針について文句とか無いの?」みたいな話ツイッターでをしていた。すると、「宗教を信仰しているのと、活動をするというのは違うんじゃないの?」とか「布教するのは違うんじゃないの?」みたいな反応があった。それを受けて考えてみたんだけど、話はそう簡単ではないと思う。


なお、大学の学則における宗教についての記述には以下のようなものがある。




(学生団体の活動の制限)
第7条 学生団体は、学内において、特定の政党を支持し、若しくはこれに反対するための政治活動又は特定の宗教のための宗教活動を行ってはならない。


(集会の開催)
第9条 学生又は学生団体が、学内において、集会(集団行進及び集団示威行動を含む。以下同じ。)を開催しようとするときは、あらかじめ責任者を定め、別に定める学生集会(催)願を事前に学長に提出し、その許可を受けなければならない。
(集会の制限)
第10条 学生又は学生団体は、学内において、特定の政党又は宗教団体に係る活動を目的とする集会を開催することはできない。



現在、(少なくとも筑波大学では)グローバル化を推進しており、留学生も多数受け入れている。例えばイスラムの女性が「ヒジャブ」(頭の髪を覆う布)を付けている光景も良く見られる。そこには宗教性が当然ある。もちろんそれは咎められていないし、咎めるべきであるとも思っていない。しかし例えば、学内において、ある宗教の教徒が、自分たちのやるイベントの勧誘のためのビラを配ったりしたら、基本的には規制の対象となる。学生も、すぐに学生生活課に苦情を入れることであろう。実際そういう状況(苦情を入れて対処される)は何回か見たことがある。


しかし学内でクリスマスパーティをやると言ったら、私はクリスマスは宗教的イベントであると思うので、規則に照らすならば規制するべきであると思う。ハロウィンも同様である。しかしそうしたものが咎められている気配はない。それはそうしたイベントが既に我々日本人にとって馴染みのイベントになっていて違和感がないからだろうと思われる。


もちろん、日本人はそうしたイベントを商業的なものにしてしまって、宗教性を伴わないイベントになっているということ自体は理解できる。そうした、実質や心の伴わないものは宗教ではないと考えているのかもしれない。では外見が宗教でなくても宗教の心が伴っていれば宗教と言えるだろうか。例えば私がキリスト教の教えに従って、「自分に害為すものの幸せを祈って行動する」のは、キリスト教の心が伴っているのであるから、まぎれもない宗教活動だと思うのである。私は洗礼を受けたことはないが、キリスト教の教えを断片ではあるが学び、実践することにしているのである。ではこれは学則で規制すべきことだろうか?あるいは、他の人の行為にもこういうものはたくさんあるのではないだろうか?


マザー・テレサの言葉」みたいなのが持てはやされているのを結構見るのだが、なぜ「キリスト教」は受け入れられないのに「マザー・テレサの言葉」ならいいのだろうか?と考えると、「一般的にも立派な行為と言えることだから、宗教と特別言わなくてもいいんじゃない?」という気持ちがあるのだと思われる。私の眼には、マザー・テレサの内心では、キリストの教えを熱心に実行しているつもりであるのだと思うのであるが。


問題の核心はここである。ある宗教の中に居る人は、その宗教の教えの通りに生きることが生きることそのものなのである。宗教の教えを実行するのが生きることであり、その中の行為に「これは宗教的行為」「これは宗教的行為ではない」という区別があるわけではないのである。それを判断するのはいつも外部の人である。これは宗教がとても特殊なものであるということではなく、むしろ逆である。日本人も例えば「家庭を持って子供を育てるのが幸せ」教とか、「生きるというのは自分のやりたいことをやる事だ」教などがいつも宗教戦争をしているのである。ちなみに「この世に唯一絶対正しいものなどないんだよ教」が仏教である(らしい)。


生きる理由なんてものを考えると、どう頑張っても理屈では説明しきれない(少なくとも私には未だに出来ていない)。生きることに根拠を求めていくと、どこかで理由を考えることを諦めて、何かを無批判に、無根拠に受け入れなくてはならない。そこには「信じる」があり、宗教はそこで生まれる。


話を戻して、では「宗教の禁止」とはなんなのだろうかと考えると、まず「生きることすべてが宗教である」という考えからはこんなルールが出てくるわけはないので、そういう意味ではない。これは要するに「(大多数の人にとって)迷惑な事は禁止」ということでしかないのである。もっと言えば、普通の迷惑行為は迷惑行為として問題に出来るが、普通の基準では規制できないが「奇異に見える行為」を規制する理由として使われているのである。実際、日本に置いて「宗教」という言葉が使われる時は「自分達には理解できない事(をする人達)」という意味で使われているように思う。



「異文化理解をする。しかし自分にとって迷惑に感じる異文化は認めない」というのでは、異文化理解になっていない。自分が迷惑に感じるという理由で相手が悪いと決めつけるのは大変幼稚な事である。これは「ハラスメント」という言葉が起こす現象と同質の問題を含んでいる。言いがかりを付けたら相手を裁ける仕組みの中では、迷惑だと言ったものの要求が常に通るのだから、わがままな人の思い通りになってしまう。ハラスメントとして表明できること自体には重要な価値があると思うのだが、ハラスメントだと言ってからの対処は慎重でなくてはならない。もちろん、迷惑だと表明することは構わないのである。しかしざっくり言えば、迷惑だと表明して、相手の言い分を聞くところからが異文化理解である。これは何も外国人との交流に限った話ではない。


テクニカルな事を言うと、迷惑だと表明したことが即相手を裁くことになってしまう状況では、迷惑だと言う事自体の重みがとても大きくなってしまう。そうした状況では主張自体が抑制されてしまうし、言わないまま鬱憤を溜めて、言う時はいつも爆発するとき、ということになってしまう。もしそうした主張が抑制されていないとすれば、物凄く立場の強さに差があって好きなように相手を排斥出来る場合であるということである。日本の在学生と留学生との関係というのは大きく人数差があるため、その代表的な例と言える。
みんな異文化理解など本当はしたくないのだということが透けて見えている。究極的には別にしなくてもいいのだが、だったら綺麗事を言うのをやめろと思うのである。留学生が不憫ということもあるが、結局このままでは(グローバルに見た時の)大学の評判も落ちるのではないかと思う。しかし、異文化理解を必要とするのは、いつも理解されない側であるのかもしれないと考えると、せめて、普段「日本人」にすら排斥されている(と感じている)人は、その重要性を認識してみてもいいのではないだろうか。




以下捕捉


・ご存知の事と思うが、日本でこうした宗教の認識が広まったのは、オウム真理教に代表される宗教集団が宗教団体であることを隠れ蓑として色々と問題を起こしたことによる影響が大きい。宗教には自分で名乗るものと名乗らない物があって、日本で宗教を名乗るのは困った者達だけという状況が起きていた(今も別に変わったわけではないと思う)。そうした状況で、宗教を名乗る人達に近づかない方が賢明であるという判断をすること自体はなんらおかしい事ではない。


・「まともな宗教は良いけど、カルト宗教が問題」と言うことも出来るが、まともじゃない宗教の事をカルト宗教と呼ぶのであるから、これはトートロジーであり、結局はまともかどうかは自分で判断するしかない。もちろん信頼できる人に聞いてもいいが、ポイントは、宗教の中の人にしてみれば区別はないはずだということである。ところで、我々日本人の「会社信仰」がカルト宗教でないと言い切れるだろうか?


・「みんなが迷惑に思うことは禁止」というのはそれ自体問題がある考えであるわけではない。しかし、そのみんなが迷惑に思うこととは何なのかということを、抽象的であってもいいから書かないと、「何が迷惑な事か」を決められる側の権力(裁量権)を大きくなる。それは持っている側にとっては美味しい事だが、それがいつ自分に牙をむくかどうかを考えるべきである。


・銭湯が「刺青のある人はお断り」と書くのは、ヤクザをやんわりと否定するためである。それによって恩恵を受けているのは、現場で問題が起きた時に対処を余儀なくされる番頭(って言うのかな?)である。割を食っているのはヤクザではなく刺青をしている人である(ヤクザもかもしれないが)。今回の件でも同様で、宗教を禁止という言い方にしていることで恩恵を得ているのは問題が起きた時に対処する大学事務であると思う。大学事務の仕事を無限に大変にしていいとも思わないので、宗教を容認する方向へ方針を変更するならば、大学職員にクレームを入れることを控えないといけないし、クレームを入れたのに大学職員が対処しないという事態を受け入れないといけない。私は本当にそうするべきだ(いちいち対処するからみんなが付け上がる)と思っているのだが、そう思わない人がたくさん居るのだろうな、とは思う。