人にはそれぞれ想いがあり物語があるのだということ

週刊少年ジャンプで掲載されている「ワールドトリガー」という漫画が好きです。その中の特に好きなエピソードを紹介します。



良く知らない人のために必要な事だけ説明すると、物語の本筋としては外敵からの侵攻に組織的に耐えたり備えたりしているのですが、それ以外の時間では、その任に当たる人達同士で切磋琢磨して実力を磨くために模擬戦が行われています。模擬戦には個人戦とチーム戦があって、これはチーム戦でのお話。




あるチームのメンバーの一人が脱退することになって、そのチームのメンバーは「最後にこのチームで頑張ろう」と意気込んで模擬戦に臨んだ。


そうした気合を見て、模擬戦の解説席では、実況者が「気迫がありますね」「いつもより気持ちがこもっているように感じます」とコメントする。


しかし、同じく解説席にいる、この模擬線におけるトップの成績を持つ人物(Aとする)はそれを受けて、こう言う。

「気持ちの強さは関係ないでしょ」
「勝負を決めるのは戦力・戦術 あとは運だ」
「多少は気持ちが人を強くすることはあるが、それで戦力差がひっくり返ったりはしない」
「気合でどうこうなるのは戦力差が相当近い時だけだ」


(…ここまでは、少年漫画っぽくないなあとは思いつつも、「そうかもなあ」と思って読んでいたのですが、この作者の真骨頂はその先にありました。)



結局その「気迫溢れる」戦いをしていた人物は、対戦相手に負けてしまう。しかし、Aは「最後まで粘っていい勝負だったな」と戦った人を称える。やや意外そうな顔をしている実況者を見てAはこう言う。

「勘違いするなよ 俺は気合の乗った熱い勝負は大好物だ」
「けど気持ちの強さで勝負が決まるって言っちまったら じゃあ負けた方の気持ちはショボかったのかって話になるだろ」



これを読んだ私は「そう、そう、そうなんだ!」と、ずっと探していた言葉を見つけた気持ちになりました。


今まさにオリンピックが行われていて、連日選手の活躍が報じられていますね。その中で、上記の様な「気持ちが強さで勝った」という話は選手からも報道からもたくさん聞かれます。私自身も、見ていて「あんな局面で動じないなんて凄いな」と思ったりします。そして、そういうもの自体が悪いわけでは全くないんだけども、それを理由に勝ったとか負けたとかいうのは、やはり思慮が足りないのではないかと上記のエピソードは戒めているわけです。



良い成績を残した選手はインタビューなどをされてその心情が明らかになっていきますし、幼いころからのエピソードなども紹介されたりします。そうすると、なるほどこんなに頑張ってきたから今勝ち上がってきたのだな、という選手に対する共感が芽生えてきます。それ自体は悪い事ではないのだけど、では早々負けてしまった人や、そもそもオリンピックに出場も出来なかった人の人生に同じだけの物語がないのかというと、そんなはずはないでしょう。ただ、私たちが彼らの想いや物語に触れることが出来ないだけなんだと思うんです。


メダルを取って表彰式に出ている人に「東京オリンピックでも頑張ってください」と言うのだけれども、本当は再度その出場権を争って日本国内で戦うはずで、そこには今出ている人に成り代わって活躍するつもりでいる新たな選手が居るんだと思うんです。でもそのまだ見えない人のことに我々は想いを馳せることは出来ない。それはなぜかというと、共感できるだけのエピソードが与えられていないし、活躍する姿も見られていないからです。


また別の見方をすれば、「幼い頃から親の勧めで○○をやっていた」というようなケースは、オリンピック選手になったような人にとっては良い教育だったということになるでしょうけど、そういう方式で幼いころから他の時間を全然与えられずにそればかりやらされていた人のうち、多くの人にとってはそれは大した実を結ばないわけですし、場合によっては「親のエゴで好きでもないことをやらされていた」とまでなってしまうことなんだと思うわけです。だから、そういう報道を見て「うちの子も幼いころから熱心に教育せねば」と思ってしまうのは、非常に多くの不幸を生み出すことになると思うので、慎重に考えて欲しいと思ったりするわけです。



そうした、紹介されない人にも想いや物語があるということを想像するのはそもそも難しい事なんだと思います。それは、普段の生活で接する身近な人とそうでない遠い人を区別しないというようなことと同じですから。でも、私はそういうことを忘れないようにしたいと思いますし、そう思う人が増えるといいなあと思ってこんな話をしたりすることはやってもいいんじゃないかなあと思っています。




余談。


例えば日本では、日本人がノーベル賞を取ったという話を聞いてからそんな凄い人が居たのかと気付いて、慌てて文化勲章を授与したりすることがありますよね。そういうのって、本当は恥ずべきことだと思うんです。ノーベル賞を授与する人達は、この世の成果というのを公平なまなざしでいつも広くチェックしているから(と言うと批判もありましょうが、まあ他の団体に比べれば)、そういう人を見つけられる。本当は、日本国内でもそういう評価に値する人を自力で見出して日本として支援していなければならなかったのに、既に評価を与えた状態になってから後追いすることしか出来ていない。


「こいつは見込みがある」と思ったら支援して育てるというようなことをしないで、自力で勝ちあがった人を評価するだけ。そういう態度と、「勝てば官軍」的な(広い意味での)競技者の態度が悪循環してしまっているという場面が多くあるのではないかと感じています。