「日本」の本体は読みではなく文字である(のかもしれない)

その昔、「日本」には「にほん」と「にっぽん」の二つの読みがあるけど、どっちが正しい読みなの?と思って、調べたところ「どっちも正しい」と書かれていて、ええーそんなのありかと思ったことがあったのですが、皆さんがそれを調べたことがあるかどうかは知りませんが、二つの読みがどっちでもいいってなんか不思議だと思いませんでしたか?読み方が統一されてないなんて、そんな国は他にあるんでしょうか?外国の人に言ったら「なんで?」って言われそうな気がします。いや、国内でも複数の言語を用いている場合とかではあるんでしょうがそういうわけでもなく、偏ることもなくどちらも同等に使えるってのはかなり不思議な気がしました。


で、ちょっと話は変わって、私が自動車免許を取ったときのことなんですけど、免許合宿に申し込むのに本籍が書かれた住民票を提出する必要があったので市役所で貰ってきたのですが、その住民票には、私の名前の「龍」の字がこの字じゃなくて、左上の立の一画目が横棒になってるものだったんですね(画像参照)。なんと、私の名前の字は本当はこの字だったのか!知らなかったよ!ってなりました。父親に聞いてみたんですが、父親も知らなかったということでした。


(画像は後述のリンク先サイトより引用)



ところで、やむにやまれぬ事情があれば一応我々は名前を変えることが出来るってのは皆さんも聞いたことがあるんじゃないかと思います。この時ついでに調べたのですが、基本的には名前を変えるには本籍を変更しなくてはいけないわけですが、実は名前の「読み」だけなら、住民票レベルで変更できるようなのです。もうちょっと正確に言うと、そもそも戸籍には文字しか登録しておらず、住民票には読みも登録するので、読みを変更するなら住民票を変更すればいいということになるわけです。


この時に、私は「なるほど、私の名前の本体は文字であって、音声ではないのか」と理解したわけです。だから「りゅうたろう」って呼んでいいという話ではないです。別に怒りやしませんが。


ここで冒頭の疑問に戻りますと、実はこの「日本」というのも、読みはどっちでもいいけど、この文字は変えてはいけないものであって、つまり文字が本体である、と考えることが出来るのではないでしょうか。…というのが、今回気付いたことでした。




ところで、苗字の「サイトウ」の「サイ」にたくさんの異字体があるというのは皆さんもご存知かと思います(画像参照)。これらの斉のバリエーションは、書き間違いによって生れてたと言われているとどこかで聞きました。つまりたぶん役所の人が、戸籍に書く際に間違えたことによって字が増えていったということでしょう。


(画像はリンク先サイトより引用)


では、私の龍の字も、役所の人が書き間違えたせいでそうなったんだろうか?と思ったのですが、それは少し違って、この龍の字を名前に使える漢字として登録する際に、参考にされたフォント(活字)がたまたまこういう書き方をするものだったから、ということのようでした。(以下の記事を参照、さっきの龍の字の画像もここからの引用です)


つまり、現在ではさすがに、役所の人が書いた「文字」の「ビジュアルイメージ」ではなく、その書かれた文字が指す「文字のクラス名」で書かれたものが、名前の本体ということになるようです。「文字のクラス名」というのは、イデアとしての文字です。つまり、各自が書いた「同じ文字のつもりの文字達」を書く時に目標となった文字のことです。


たぶん重要なのは、その「文字のクラス名」は文字で表現してしまうとその文字(フォント)を指してしまうが、かといって「読み」でもない、ということなのかなと思います。…あ、これ普通の人には絶対重要じゃないので忘れて大丈夫です。




これは以前も触れたことがある話なのですが、現在のコンピュータの文字入力ではあらかじめ用意しておいた文字を選ぶだけで、自分でビジュアルを創造するわけではないので、書き間違いによる新たな文字の発生ということが起こりません。しかし、手書きをしていた頃は(今もしていますけど)、書き間違い、あるいは省略によって日々新たな文字が生まれていたはずです。先程のサイトウもその例です。新たな言葉は文字の組み合わせによっていくらでも生じるのに、新たな文字は生じなくなる、あるいは、人々にとって気軽に生めるものではなくなっている、というのはなかなか面白い観点だと思っています(自画自賛)。


また、コンピュータでは複雑な漢字を簡単に書くことが出来るので、書くのが面倒だからやめようとしていたことをやめなくて良くなる面があります。中国では簡体字と呼ばれる略式の漢字が広く使われていますが、もしコンピュータがもう少し早く普及していたら、これらの文字はもう少し別の形になっていたでしょう。日本でも歴史的仮名遣いを復活させようと主張している人たちがいたりしますが、そういう人達にとってもこの状況はある種歓迎すべき状況と言えそうです。それに賛同するかはともかく。




さて、本当はこれに関連して、ずっと「音楽の『奏でられた音』と『楽譜』の関係」というのを考えているのですが、話が長いのでまた今度にしましょう。では。