メッセージは科学的に正しくないからこそメッセージになる

(この文章は自分的には論理の展開がおかしい気がしているんだけど、見直してそのうち仕上げたいなので、公開しといた方が自分でも確認しやすいので公開しておく)

(この文章の趣旨的には、「メッセージ」は「科学」と一緒で、情報量を増やすものなので、それを反するものだと書いているのがおかしいのかな)



科学とは何かを語るうえで重要な指標として「反証可能性」というものがある。「科学とは何か」なんてことに皆が興味が有るのか無いのか分からないが、これが分かっていると日常でも役に立つと思うので紹介する。これは情報量と関係のある概念だ。


「無駄を無くせ」なんてことを言う人がよく居る。しかし、無駄という言葉はそもそも「要らないもの」という意味を含んでいるわけで、無駄を無くした方が良いのは当たり前である。だからその言葉には情報量がない。それに対して、「何が無駄なのか」を挙げることには情報量がある。そして、特定のものを「無駄だ」と指摘すると「いやそれはあんたは無駄だというかもしれないけど、私にとっては無駄じゃないんだ」と反論することが出来る。例えば「ゲームは時間の無駄」などと言えば多数の反論が来るであろう。反論の余地がない話は確かに正しいが、言っても意味がない。


「この世には二通りの○○がいる」という語り口がある。ここで例えば「世の中には二通りの男がいる。結婚していない男と、結婚している男だ」などと言ったとすると、この文章は「結婚」のところに何を入れても正しい。文の構造自体がそうなっているのだ。こういう文の事を「トートロジー(恒真)」な文という。これに対して、例えば「世の中には二通りの男がいる。結婚していない男と、結婚を後悔している男だ」という文だとすると、これはおそらく正しくはないが、言った人が「男は結婚をすると後悔する」というメッセージを出していることは分かる。もしそれが正しければ新しい事を言えていることにはなる。そこに情報があるわけである。


嵐の大野氏は、やる気を出さないメンバーに向かって「目の前の事を頑張れない奴が何を頑張れるんだ!」と言ったそうである。かっこいい言葉だと思う。しかしそれはメッセージであって、正しくはないな、と思うのである。ブラック企業の社長のような、目の前のことに人を縛りつけて不満を言わせない目的の人も同じことを言うであろう。だからこの言葉はシチュエーション限定でしか(文脈依存にしか)正しくないのである。


今私は「こういう場合は正しくない」と、大野氏の意見を否定して見せた。ある命題を否定する論証をすることを「反証」という。反証とは、事例を挙げるなりして「その説は間違っています」と言うことだ。であるから、反証可能性があるということは「どのような事例が示されれば、あなたの説は間違っていることになりますか?」という質問に答えられるということだ。そして、科学には、この反証可能性がなくてはならない(という考えの学者が多数派である)。科学の法則はすべてが仮説であり、いつか否定されるかもしれないが、今のところ正しそう、というものなのだ。科学は「絶対に正しい」とは「絶対に言うことが出来ない」。それは弱々しいと思うかもしれないが、その謙虚さが科学を他と区別しているのである。だから「絶対に正しい」などと言う科学者は信用してはいけない。


しかし、例えば医者が患者に「私の病気は治りますか?」と聞かれて、「絶対に治るとは言えない」と返答するのは、科学的には正しいのだろうが、果たして医療として正しいのだろうか?あるいは、大野氏が言うようなかっこいいセリフは馬鹿な意見なのだろうか?きっと、相手に言いたいことが伝わったのなら、そのシチュエーションでは科学とは別の意味で、メッセージとして正しかったのだと思う。逆に言えば、メッセージとは、正しいとは限らないことを正しいと言い張る事なのだと思う。


書いていて思うが、こんなまどろっこしい話を、学者以外の誰がするというのだ。おおよそ世の中のかっこいい事は、科学的に正しくない事の中にあるんじゃないだろうか。

すべての人を罪人に出来るルールは諸刃の剣である

その昔、ヨーロッパで魔女狩りという風習があった。ざっくりと解説すると、今起きている社会の問題は人間に紛れている魔女が起こしているから、その魔女を見つけ出して殺さねばならない、というような風習である。その際、疑いをかけられた人が魔女なのかどうかを判定するために、「魔女裁判」と呼ばれる取り調べが行われていた(後世の人がそう呼んだだけかもしれない)。その方法は色々あったようだが、特に私の印象に残っているのは以下の方法である。「体を縛って川に投げ込み、浮かんできたら魔女で、沈んだら魔女ではない」。当然この方法では、浮かんだら殺されるし、沈んだらそのまま死ぬので、疑いをかけられた時点でその人は死ぬしかない。このような理不尽な裁判が行われたらしく、転じて、現代でもこのような一方的な処罰のことを魔女狩りと呼ぶことがある。


魔女狩りが行われている世界に住んでいる状況を想像すると、やはり酷く恐ろしい。いつ自分が魔女だと言われるか分からないし(ちなみに、魔”女”狩りだからといって、女ばかり殺された訳ではないようである。魔術が使えるんだから男にも化けられるという事だろうか)、一度やり玉に挙げられたらもう助かる見込みがない。そういう世界では、目立たぬよう、角(かど)を立てぬよう、おびえながら生きることになりそうだ。


では魔女裁判は具体的には何がおかしいのだろうか。それはもちろん、自分が魔女ではなかった場合に処罰を免れる可能性がないことである(そもそも魔女であることが悪いことなのかはよく分からないが、ここではそのことは忘れておこう)。これを防ぐために、近代法には基本原則として「無罪の推定」という仕組みが組み込まれている。「無罪の推定」は「誰でも裁判で有罪が確定するまでは無罪と見なされるので処罰(不利益)を与えてはいけない」ということと「その人が有罪であることを証明する責任は告発した側にある」ということだとしておこう。


「無罪の推定」によって「あいつはなんか怪しいよな」という理由だけでは人を処罰できなくなる。これによって、みんなが気楽に生きられるようになる。しかし、この原則は裁判所ではともかく、一般にはすぐ破られる。人は「なんだか怪しいからあいつを排除したい」と思うのが普通なのである。それがなぜかと言われると、人間ってのはそういうものだとしか言いようがないところがあるのだが、逆に、人間ってのはそういうものだからこそ、自然に任せていると皆がどんどん生き辛くなってしまうので、長年(千年単位)の議論の末に「無罪の推定のような仕組みを入れておいた方がいい」というところにたどり着いたのだと考えるといいと思う。直観に反するからこそ必要なものの一例だ。


さて、具体例としてセクハラについて考えてみよう。セクハラという概念が生まれたのは、これまで男性が女性の嫌がることを多々してきたことへの対処であるわけで、それ自体は良い変化だと思う。ハラスメントの概念の画期的な所は、「受け取る側が嫌だと思ったらハラスメント」と定義したことである。普通、ある行為の良し悪しは行為者側に依存する。それを、行為を受け取る側から論じられるようにしたのだ。それによって、「問題ないと思う人もいるかもしれないけど本人にとっては嫌な事」について、嫌だと表明できるようになった。しかし、セクハラだと表明して、もしそれで弁明の余地無しに相手に処罰が与えられてしまったら、それは魔女狩りと同じだ。さらに、表明しただけで処罰が与えられるとなると、それ自体が重い意味を持つようになり、女の人も表明しにくくなって損をしてしまう。それを防ぐには「嫌だと表明すること」と「相手が悪い」ということは別だと考える必要がある。


相手の言い分に依らず人を罰することが出来る仕組みは、それがいかに自分に都合が良く思えても、同じことが自分にも適用される危険性を常に考慮しなくてはならない。

宗教が「理解できないもの」という意味で使われているなら、宗教が排斥されるのは当然である

ちょっと前に、大学で「宗教活動を禁止してるってのはグローバルな大学になりたいって言ってるのにまずくない?」「学内に宗教学の先生もいるはずなのに、そういう方針について文句とか無いの?」みたいな話ツイッターでをしていた。すると、「宗教を信仰しているのと、活動をするというのは違うんじゃないの?」とか「布教するのは違うんじゃないの?」みたいな反応があった。それを受けて考えてみたんだけど、話はそう簡単ではないと思う。


なお、大学の学則における宗教についての記述には以下のようなものがある。




(学生団体の活動の制限)
第7条 学生団体は、学内において、特定の政党を支持し、若しくはこれに反対するための政治活動又は特定の宗教のための宗教活動を行ってはならない。


(集会の開催)
第9条 学生又は学生団体が、学内において、集会(集団行進及び集団示威行動を含む。以下同じ。)を開催しようとするときは、あらかじめ責任者を定め、別に定める学生集会(催)願を事前に学長に提出し、その許可を受けなければならない。
(集会の制限)
第10条 学生又は学生団体は、学内において、特定の政党又は宗教団体に係る活動を目的とする集会を開催することはできない。



現在、(少なくとも筑波大学では)グローバル化を推進しており、留学生も多数受け入れている。例えばイスラムの女性が「ヒジャブ」(頭の髪を覆う布)を付けている光景も良く見られる。そこには宗教性が当然ある。もちろんそれは咎められていないし、咎めるべきであるとも思っていない。しかし例えば、学内において、ある宗教の教徒が、自分たちのやるイベントの勧誘のためのビラを配ったりしたら、基本的には規制の対象となる。学生も、すぐに学生生活課に苦情を入れることであろう。実際そういう状況(苦情を入れて対処される)は何回か見たことがある。


しかし学内でクリスマスパーティをやると言ったら、私はクリスマスは宗教的イベントであると思うので、規則に照らすならば規制するべきであると思う。ハロウィンも同様である。しかしそうしたものが咎められている気配はない。それはそうしたイベントが既に我々日本人にとって馴染みのイベントになっていて違和感がないからだろうと思われる。


もちろん、日本人はそうしたイベントを商業的なものにしてしまって、宗教性を伴わないイベントになっているということ自体は理解できる。そうした、実質や心の伴わないものは宗教ではないと考えているのかもしれない。では外見が宗教でなくても宗教の心が伴っていれば宗教と言えるだろうか。例えば私がキリスト教の教えに従って、「自分に害為すものの幸せを祈って行動する」のは、キリスト教の心が伴っているのであるから、まぎれもない宗教活動だと思うのである。私は洗礼を受けたことはないが、キリスト教の教えを断片ではあるが学び、実践することにしているのである。ではこれは学則で規制すべきことだろうか?あるいは、他の人の行為にもこういうものはたくさんあるのではないだろうか?


マザー・テレサの言葉」みたいなのが持てはやされているのを結構見るのだが、なぜ「キリスト教」は受け入れられないのに「マザー・テレサの言葉」ならいいのだろうか?と考えると、「一般的にも立派な行為と言えることだから、宗教と特別言わなくてもいいんじゃない?」という気持ちがあるのだと思われる。私の眼には、マザー・テレサの内心では、キリストの教えを熱心に実行しているつもりであるのだと思うのであるが。


問題の核心はここである。ある宗教の中に居る人は、その宗教の教えの通りに生きることが生きることそのものなのである。宗教の教えを実行するのが生きることであり、その中の行為に「これは宗教的行為」「これは宗教的行為ではない」という区別があるわけではないのである。それを判断するのはいつも外部の人である。これは宗教がとても特殊なものであるということではなく、むしろ逆である。日本人も例えば「家庭を持って子供を育てるのが幸せ」教とか、「生きるというのは自分のやりたいことをやる事だ」教などがいつも宗教戦争をしているのである。ちなみに「この世に唯一絶対正しいものなどないんだよ教」が仏教である(らしい)。


生きる理由なんてものを考えると、どう頑張っても理屈では説明しきれない(少なくとも私には未だに出来ていない)。生きることに根拠を求めていくと、どこかで理由を考えることを諦めて、何かを無批判に、無根拠に受け入れなくてはならない。そこには「信じる」があり、宗教はそこで生まれる。


話を戻して、では「宗教の禁止」とはなんなのだろうかと考えると、まず「生きることすべてが宗教である」という考えからはこんなルールが出てくるわけはないので、そういう意味ではない。これは要するに「(大多数の人にとって)迷惑な事は禁止」ということでしかないのである。もっと言えば、普通の迷惑行為は迷惑行為として問題に出来るが、普通の基準では規制できないが「奇異に見える行為」を規制する理由として使われているのである。実際、日本に置いて「宗教」という言葉が使われる時は「自分達には理解できない事(をする人達)」という意味で使われているように思う。



「異文化理解をする。しかし自分にとって迷惑に感じる異文化は認めない」というのでは、異文化理解になっていない。自分が迷惑に感じるという理由で相手が悪いと決めつけるのは大変幼稚な事である。これは「ハラスメント」という言葉が起こす現象と同質の問題を含んでいる。言いがかりを付けたら相手を裁ける仕組みの中では、迷惑だと言ったものの要求が常に通るのだから、わがままな人の思い通りになってしまう。ハラスメントとして表明できること自体には重要な価値があると思うのだが、ハラスメントだと言ってからの対処は慎重でなくてはならない。もちろん、迷惑だと表明することは構わないのである。しかしざっくり言えば、迷惑だと表明して、相手の言い分を聞くところからが異文化理解である。これは何も外国人との交流に限った話ではない。


テクニカルな事を言うと、迷惑だと表明したことが即相手を裁くことになってしまう状況では、迷惑だと言う事自体の重みがとても大きくなってしまう。そうした状況では主張自体が抑制されてしまうし、言わないまま鬱憤を溜めて、言う時はいつも爆発するとき、ということになってしまう。もしそうした主張が抑制されていないとすれば、物凄く立場の強さに差があって好きなように相手を排斥出来る場合であるということである。日本の在学生と留学生との関係というのは大きく人数差があるため、その代表的な例と言える。
みんな異文化理解など本当はしたくないのだということが透けて見えている。究極的には別にしなくてもいいのだが、だったら綺麗事を言うのをやめろと思うのである。留学生が不憫ということもあるが、結局このままでは(グローバルに見た時の)大学の評判も落ちるのではないかと思う。しかし、異文化理解を必要とするのは、いつも理解されない側であるのかもしれないと考えると、せめて、普段「日本人」にすら排斥されている(と感じている)人は、その重要性を認識してみてもいいのではないだろうか。




以下捕捉


・ご存知の事と思うが、日本でこうした宗教の認識が広まったのは、オウム真理教に代表される宗教集団が宗教団体であることを隠れ蓑として色々と問題を起こしたことによる影響が大きい。宗教には自分で名乗るものと名乗らない物があって、日本で宗教を名乗るのは困った者達だけという状況が起きていた(今も別に変わったわけではないと思う)。そうした状況で、宗教を名乗る人達に近づかない方が賢明であるという判断をすること自体はなんらおかしい事ではない。


・「まともな宗教は良いけど、カルト宗教が問題」と言うことも出来るが、まともじゃない宗教の事をカルト宗教と呼ぶのであるから、これはトートロジーであり、結局はまともかどうかは自分で判断するしかない。もちろん信頼できる人に聞いてもいいが、ポイントは、宗教の中の人にしてみれば区別はないはずだということである。ところで、我々日本人の「会社信仰」がカルト宗教でないと言い切れるだろうか?


・「みんなが迷惑に思うことは禁止」というのはそれ自体問題がある考えであるわけではない。しかし、そのみんなが迷惑に思うこととは何なのかということを、抽象的であってもいいから書かないと、「何が迷惑な事か」を決められる側の権力(裁量権)を大きくなる。それは持っている側にとっては美味しい事だが、それがいつ自分に牙をむくかどうかを考えるべきである。


・銭湯が「刺青のある人はお断り」と書くのは、ヤクザをやんわりと否定するためである。それによって恩恵を受けているのは、現場で問題が起きた時に対処を余儀なくされる番頭(って言うのかな?)である。割を食っているのはヤクザではなく刺青をしている人である(ヤクザもかもしれないが)。今回の件でも同様で、宗教を禁止という言い方にしていることで恩恵を得ているのは問題が起きた時に対処する大学事務であると思う。大学事務の仕事を無限に大変にしていいとも思わないので、宗教を容認する方向へ方針を変更するならば、大学職員にクレームを入れることを控えないといけないし、クレームを入れたのに大学職員が対処しないという事態を受け入れないといけない。私は本当にそうするべきだ(いちいち対処するからみんなが付け上がる)と思っているのだが、そう思わない人がたくさん居るのだろうな、とは思う。

ロジカルシンキングと宗教に共通してみられる布教性について

ロジカルシンキングは、相手のためのものである。論理的に考えて論理的に説明すると、相手は納得しやすい。がしかし、それゆえに、ロジカルシンキングを求める人は、自分ではなく相手に求めるのである。


「相手の望むことをしてあげると幸せになれる」という教義を持つ宗教を考えてみよう。簡単化のために、この宗教にはこの教義しかないものとして考える。この教えを守る集団がいたとすると、お互いが相手の望むことをしてあげることによって、お互いが幸せになることができる。さてここに、その宗教に入信していない人がいたとする。その人は他の人を幸せにしようとはしないのだけど、他の人はその宗教に入っているわけだから、その人を幸せにしようとする。そうなると普通は、相手の望みを叶えようとしている側は不公平に思うだろう。(まあ、その宗教に入信してる人は相手が幸せになればいいわけだから、その相手が見返りをくれなくても究極的には構わないのかもしれないが)


この場合にどういうことが起きるのかを想像すると、「相手にも自分と同じ宗教に入ってもらう」か、「同じ宗教に入っていない人を排斥する」のではないかと思う。これは、裏表の関係にあるもので、どちらか一方を選択すると同時にもう片方も起こることだと思われる。


ここで仮に定義した宗教の教義というのは、実は宗教のとても大きなポイントなのではないかと思っていて、それゆえ宗教は「布教をする(その考えに賛同する人を増やしていく)」ということがそもそも根幹に据えられていて切り離せないのではないかとか思っているのだが、その話はまた別の機会にする。


さて、よくロジカルシンキング(論理的思考)について。ロジカルシンキングというのは、まあ割とチャライ感じ「万能の道具だー」みたいに使われているのかもしれなくて、具体的に本を読んだ事とかはないのだが、とりあえずここでは論理的に説明する事だとしておく。「思考」って言ってるのに「説明」に限定するのはなんで?って思うかもしれないけど、脳内でどう思考しているかなんて他の人には見えっこないからである。


論理的な説明というのは、正しさが明確な説明である。しかし、それは論理という考え方自体を受け入れて理解しているからこそそうなるのであって、論理を受け入れていない人に対してはその効果は発揮されない。論理というのは「こういう説明なら納得できるはず」という「納得の型」であり、その型を持っていない人にとっては、なぜその説明で納得できるはずなのかが分からないのである。
さて、ここで冒頭の宗教の例を振り返ってみよう。論理は、お互いがそれを受け入れていると、お互いの議論がスムーズになって、その分だけお互いを幸せにしてくれる。しかし、そこに論理を受け入れていない人が混ざると、「論理側」の人ばかり相手の幸せを願うことになって、不満を抱くことになる。


そこから起こることも宗教の例と同じで、他人に「ロジカルシンキングをするよう強いる」か「ロジカルシンキングをしない人を排斥する」になると思われる。こういう例に思い当たる節があるはずである。


ここらで大体話は終わりで、結論というには少し飛躍(論理が)している感があるが、少し考察する。ロジカルシンキングというのは、元々が「相手のため」のものであるからこそ、そこに宗教と同様の「布教性」が発生するのだろうと思われる。なぜロジカルシンキングが相手のためのものなのかと言えば、それは「説明」が相手のためのものなのだからだろうと思われる。

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以下補足。
・もちろん私は、論理的な説明というのは、相当に妥当かつ有用と言える方法だと思っていて、それを分からない人を議論から切り捨てるのがいけないと言っているわけではない。しかし、「説明」が「相手のためのもの」であるならば、切り捨てるということは元々の目的を放棄することだということである。

・私はここで、説明というのが「相手のためのもの」だと言っているが、これこそが論理で言う所の「前提」の一例であり、そこが真でなくなると話(結論、の意味)は変わってしまう。そしてそれが偽になってしまったケースもたくさんある。すなわち、相手に自分の意見を通して相手を好きなようにコントロールするのが目的であれば、ロジカルシンキングは相手のためのものでは無くなる。そんなものを相手が了承しないのは当たり前であろう。しかしこのケースは物凄く多い。

敗者としての人工知能

人工知能についてのぼやき(ツイートの転載)。


人工知能が人間を追い越すか?みたいな話が盛り上がってるけど、少し関係するような気がする話として、ビデオゲームのAIって、「人間の代わりに相手してくれるもの」なんだけど、それって実質的に「人間の代わりに人間に負けてくれるもの」なんだと思う。


人間同士が戦うと、どうしても勝者と敗者が生まれる。もちろん戦った事自体が楽しければいいのだけど、やはり現実としては勝った方が楽しい。そこに、負けても悲しまない存在としてのAIが居ることで、人間全員が勝つことが許される。そういう、負けるための存在としてのAIの存在を感じる。


勝手な想像だけど、昔のゲームは今より、賢く強いAIを目指していた。でも、AIが賢くなると、打ちのめされてしまう人間が出てくる。そういうゲームの方が良いゲームの様な気がするけど、実際それは「人を選ぶゲーム」になってしまって、「みんなが勝てるゲーム」の方が売れて主流になる。


無能なロボットを会社に配属してみんながロボットよりはマシみたいに思えるという活用法がある??(ロクな結論に辿りつかなかった)

人間は弱いAIだ

前から「強いAIと弱いAI」とか言ってるのが何かおかしい気がしているんです。たぶん、人間みたいな知能のことを「強いI(intelligence)」として、それに相当するものを作れたら「強いAI」って呼ぼうとしてるんだと思うんですけど…。


AIの話で出て来る、「フレーム問題」というものがあります。参考にWikipediaを見てみますと、


「有限の情報処理能力しかないロボットには、現実に起こりうる問題全てに対処することができないことを示すものである。」

「一つの可能性が当面の問題と関係するかどうかをどれだけ高速のコンピュータで評価しても、振るい分けをしなければならない可能性が無数にあるため、抽出する段階で無限の時間がかかってしまう。」


とか書いてあります。


これの何がおかしいと思っているかというと、「まるで人間は有限ではない情報処理能力を持っている」と言っているかのように見えるところです。人間の脳の大きさは有限なのですから、私の発想ではどう考えても人間の情報処理能力は有限です。じゃあ人間はどうしているのか?というと、単に有限の問題を解いているのだろうと思います。


ところで、私の話になりますが、私は東日本大震災の頃から(大震災だけが原因ではないが)、一体何が正しいことなのかという事がさっっぱり分からなくなってしまいました。そして、自分が何をしたらいいのかも分からなくなってしまいました。その頃からの悩みは一向に解決していません。これはまさに、自分が「フレーム問題に陥ってる」のだと思っています。


普通の人間は、何が正しいか分からなくても、とりあえず生殖のためにとか、仲間のためにとか、国家のためにとか、人類存続のためにとか、何か制約条件を加えることによって、問題が解けるようになるのだと思います。それを、例えば「本当に人類は存続した方がいいのか?」とかいちいち疑っていくと、何をして良いのか全然分からなくなります。それが今の私です。


つまりどういうことか。人工知能についての話の中では「人間みたいな知能を作りたい」と言っていて、人間みたいな知能のことが「強い、汎用的な知能」だみたいなことを言っているように思います。ですが、私の考えでは、人間は汎用的な知性など持っていません。もっと言えば、私の様に汎用的な知性を獲得した人(話の流れで言ってるだけです)は、フレーム問題に陥って子孫を残せずに死ぬので、世界に残る人類は基本的にいつも汎用的な知性を持たない存在となるのではないでしょうか。


「汎用的なAI」が「強いAI」なのだとすれば、フレーム問題に陥ったAIだけが、強いAIなのではないでしょうか?


というわけで、「人工知能が人間の様になるなんて期待し過ぎだ」という話を良く見ますが、私は「人間が汎用的な知性を持ってるなんて期待し過ぎだ」と思っているというお話でした。

ワクチンと最適戦略(の困った話)

ワクチンをするのは、自分のためではなく、周囲の人のためなのだろうか。だとしたら、そのように広報されないのは不誠実ではないだろうか。


ワクチンというのは、もちろん、それによって抗体を作って、自分を病気から守るものであると思う。しかしそれだけではなく、ワクチンを打って抗体を持った人がたくさん居たら、感染源が広まるのを防ぐことが出来るような気がする。すると、他の人がワクチンを打ってくれることによって、自分が感染する可能性が下がっていくことになると思う。


その場合、行政または医者が「ワクチンを是非打ちましょう」と言う時、それはどちら(両方かも知れない)を狙ってのことなのだろうか?後者つまりパンデミックを防ぐためという言い方はあまりされない気がする(私が聞いてないだけかも)。


ここでもし、ワクチンを打つことが、打つ本人にとってお金もかかるし、副作用があったりして、できれば避けたい事であるとして、しかしそれによって周囲の人の感染率が下がる場合に、最適戦略が、自分は打たずに周りの人に打たせることになってしまわないだろうか。


ワクチン打ちましょうとか言うのが金儲けのためだとかいう説もあるようだが、そうであれば無視しててもいい訳だが、実際パンデミック(とまで行かないまでも流行)を防ぐために必要ならば、協力するべきだろう。そして、もし上記の仮定が合ってるなら、自分のためだと言ってワクチンを打たせるのは嘘つきだと思うし、打ちたく無い人は自分が良いならしなくていいと思ってしまうと思う(今の私は、例えばインフルエンザについてはこの状態)。ちゃんとリスクを分担する旨を了解してもらうとか、もっと言うと強制力を働かせるとか、すべきなんじゃないだろうか。


…ド素人の考えなので、専門の方、ざっくりでもどのように考えたらいいか、教えていただけると幸いです。