文字だけのやり取りの方が伝わること
よく、インターネットでのコミュニケーションについて「文字だけのやり取りでは微妙なニュアンスが伝わらない」とか言う人が居ますが、まあそれは事実かもしれないけど、文字によるコミュニケーションの方が優れた面もあるなーと最近とても感じています。
私の所属しているピアノ愛好会というサークルでは多くの人がtwitterをやっていて、夜中にみんなで盛り上がったりしています。すると、恐らく一堂に会していたら、他の人が喋っていたら遠慮して喋らなくなる人も、そこでは発言できているわけです。そして、その瞬間は別のことに話題が進んでも、後から発言を拾って話題を広げることもできます。これは、声が大きくて主張が強い人ばかりが発言するような面と向かった場面より、よほど民主的ではないでしょうか?
他にも、例えば飲み会とかやっても、結局一度に話せるのは周囲に居る何人かに限定されてしまいますよね。それが、何十人という人と同時に会話する(と呼べるのかはともかく)ことが可能になっています。いや、私は面と向かって話すのも好きと言えば好きですけどね。
そう考えていくと、twitterのオフ会が、目の前に人が居るのにみんなスマフォを覗き込んでいるという事態さえ、別に悪くないのではないかという気がしてきました(いや、本音を言うとやはりちょっと違和感はある)。
今のはtwitterで会話というか談話をするような話についてでしたけど、最近それよりもっと思うのは、twitterでもfacebookでもそうですが、勝手に書いておいたことを読んでくれて、それで親近感を抱いてもらっている例が結構あるということです。
「当たり前じゃないか」「じゃなかったらなんで書くんだよ」と言われるかもしれませんか、私は私の考えて書いてるようなことが、他の人に興味があることだとはあんまり思っていない面があって、例えば初対面の人にあんな話はしないわけです(若干嘘だが)。でも、私自身は普段ああいうことを考えることに頭を支配されているので、そういう話が出来たらいいなといつも思っているわけです。だから本当にそうなっていると嬉しいな!と思うわけです。
そもそも、私が昔からWebに日記とかブログとかを書いているのは、自分が変な人だから、という意識によるものだと思います。とにかく私は感覚が一般的ではないので、例えば学校の様な場ではみんながやるというような場面で嫌なことが結構あったわけです。でも、ただ場を乱したいわけでもないので、自分の側の都合というものを釈明したい訳です。そしてそれはどうしても長くなるので、すぐに面と向かってというわけにはいかない事が多いのです。だから長文で書いておいて、読んでくれると嬉しいな…となるわけです。
「もやもやと思っている事を上手く言語化してくれる」と評価してもらう事が増えたのですが、仮にそれが本当だとして、それが上手になった理由は、私が自分自身に抱いている、自分は普通ではない、という気持ちによるものだと思うのです。普通の感覚の人は、言語化しなくても周囲の人と上手く馴染めてしまいますから、私は言語能力を高めないと(寂しくて)生きていけない人間だったのではないかと思うのです。
それで、更に思うのですが、面と向かって話す能力より、文章にして書く能力の方が、今の時代では友達を増やすには有効なのではないかということです。いくら面識があっても、その人が何を考えているかまで知っている人なんてのは、ごくわずかでしょう。いや、比較として考えると、面と向かって話せる人数にはそもそも限界があるわけです。ところが文章に書いてインターネットに載せれば、いくらでも拡散する事が出来るわけです。もちろん、読んでもらう事自体には高いハードルはあると思いますが。
そんなわけで、誰かと飲みに行くことはほとんどないけれど、私が友達だと感じられる人は日々増えていて、嬉しいな、みたいな話なのでした。
感覚としての分かる、表出としての分かる
の続き
前回の話は「信じる」についてだった。そこで「信じられる」は「感覚」である、という話をした。今日はその話の続き。
最近の私は、本を読んだり、自分で考え事をして「なるほど!」とか「そうだったのか!」とか、知るということでとても驚いている。そういう体験は快感だ。「知る喜び」を感じる。そしてそういうものを与えてくれるのが良い勉強だと世間的にも言われているような気がする。
対して高校までの勉強を思い出してみると、先生の話などほとんど何も覚えていない。雑談の中に極々わずかに、印象深い言葉があっただけである。メインの勉強部分で驚くということはほとんどなかった。
しかし、現に私は筑波大学に合格して入っているのであるし、授業の中で何も学ばなかったということもないと思う。ならば、知ることで驚いてはいなくても、つまり、快感を覚えながら学習していたわけではなくても、知る事には成功していたのだろう。であれば、実は知ることに驚きは必要ないのだろうか?
つまりどういうことか。「分かった」とか「知った」という感覚があることと、例えばテストで点が取れることのような、それを外的に証明する能力があることは、別物である。…ちなみに、こういう時に、後者を「本当に知る」などと呼ぶのは「言葉の取り合い」であることに注意してほしい。それらに優劣を付けずありのままに捉えれば、単に二つの「分かる」があるのだ。
ここでは「分かった」という感覚があることを、便宜上「内的分かった」と名付け、外的に証明できる能力があることを「外的分かった」と名付けることにする。
少し戻って、高校の授業に驚きが無かった、すなわち「内的分かった」が無かった理由を考えてみる。私がざっくりと考えたのは以下の二つだ。
・まだ疑問を持つ前の事を教わるので、疑問が解決したという感覚が得られない。
・上手く段階的に少しずつ新しい事を教えていくので、直前に教わった知識との差が小さいから、その瞬間知ったというインパクトが小さいから
さて、この二つはどういう関係にあるのだろうか。よく分からない。とりあえず、後者から考えてみよう。この理屈で行くと、カリキュラムを上手に組むと「外的分かりやすさ」が高まる代わりに、「内的分かった」が低くなるような気がする。果たしてそれは本当だろうか?驚きがない方が例えばテストの結果としては良くなるのだろうか?
既に知っていることをもう一度聞かされてもそれで感動したりはしない、というのは事実だろう。だから、少しずつ段階的に複雑になっていく順番で教わっていくと驚きを感じにくい、とは言えるかもしれない。しかし、驚きがない方が良いとまでは言えないかもしれない。同じことを伝えるのでも、より驚きを持って伝えることも出来るのではないだろうか。
そのいい例だと思うものとして、「温厚な上司の怒らせ方」というビデオがある。一つ見てもらおう。
https://www.youtube.com/watch?v=FeXLPBCiCpw
これは、「人の怒らせ方」についての、映像のマニュアル(もちろん、お笑い目的だが)である。これらを我々はインパクトを持って見ることが出来る。さて、普通は、マナーを教えるのであれば、正しい振る舞いをしている映像を見せるはずだ。しかし、それはきっとインパクトがないに違いない。その振る舞いは、我々が元々イメージする礼儀正しい振る舞いに相当近いはずだからである。であるからこそ、その映像があったとして、我々はそこから学ぶことが難しいのだと思う。
マナーを教えるにあたって、「何かをすべき」ということは、「何かはすべきではない」ということと表裏一体であると考えることが出来る。であるから、同じことを説明するのでも、そうしてひっくり返した方が驚きを喚起することが出来る可能性がある。しかも、片方が当たり前すぎる場合こそ、その反対が大きな驚きになるはずである。この映像の作者は、きっとそれが分かってやっていると私は思う。
また戻って、では、このことは、「疑問を持つこと」とどういう関係にあるだろうか。疑問を持っていると、それが分かった時に大きなインパクトになる、ということは事実のように思う。では、その疑問はどうすれば生まれるのだろうか。
いささかトリッキーな話になるが、結論だけでなく私の思考過程を聞いて欲しい。人はどういう時に「なぜ」と口にするか思い出してみたところ、なぜという言葉が、疑問である場合だけでなく、否定を意味することが多い事を思い出した。「あいつはなんであんなことをやるのか分からない」というのは、否定、非難の言葉だ。しかし、これを言葉の使い方が間違っていると捉えずに、そもそも否定と疑問は同じような心の動きだと考えてみた。すると、これは「今まで自分が知っていた事と違う」という局面において発生するのではないかと思いついた。
小さな子供は「なぜ、なぜ」と聞く。まだほとんどの事を知らないので、身近に起きる現象のほとんどが、自分の知識では説明がつかないのだから、疑問を持つ。ここまでは良さそうだ。大人になって、自分の持っている概念で、出会う現象が説明できてしまうなら、疑問は持たない。これも良さそうだ。そして、既にたくさんの知識を持っている状態で、説明がつかない事があれば疑問になるし、その結論が今まで考えていた事をひっくり返すようなことになれば、既に知っていることが多い人の方が影響が大きいので、大きなインパクトになる。これはどうだろう…。逆に子供は適応力が高いとか、そういうものかと思って納得してしまうというような話も聞くので、私に実感があるわけではないが、これも納得してもらえるかもしれない。そして学校の勉強で驚きが得られないのは、それが何故正しいのか考える暇もなく学んでいかないと間に合わないようになっているから、だろうか。
私は別に学校教育の悪口を言いたいわけではないので、なんだかそうなってしまった感があって癪なので、少し擁護しておこう。知識がないと、それが覆ることもないのだから、いつか覆すための知識を溜めておくことにも意味があるのかもしれない、と私は思う。
話がまとまっていなかったら申し訳ない。それでも書かないと前に進めそうにない状況なので、ご勘弁を。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
(一旦終了。以下メモ)
・難し過ぎて泣きそうだった
・次の話題は、さらに踏み込まないといけない。「○○とは何か」という問いは何を聞いているのか、何を答えればばいいのか、という話だ。「○○である」ということは「○○でない」ということとセットにできるのか、みたいな話になると思う。
・ちなみに、「信じること」からはもう一つ話の分岐先の予定があって、それは「信頼の貯金」という話だ。そしてその話からの派生予定が「安定系と不安定系」とか「スパイラル構造」みたいな話。
信じること
の続き
今日は「信じること」について書きたいのだが、そのためには自分のとあるエピソードを引用せざるを得ない。関係者の中には思い出したく無い人も居るかもしれないが、ご了承願いたい。
私はM1ぐらいの頃まで、ピアノ愛好会の後輩を厳しく指導していた(余談だが、入学当初から先輩をもっと厳しく指導するような奴だったと思う)。厳しく指導していたが、私は悪意があったつもりはなく、後輩のためを思って注意していたつもりだった。そして、それが注意されている後輩達にも伝わっていると思っていた。
しかし、実際には彼らにはイライラが溜まっていたようで、5人の後輩に呼び出され、私を吊し上げる会が開かれ、私は大いに糾弾されることになった。私はその場でも自分の言っていることの方が後輩達の言っていることより真っ当だと感じていたものの、とにかく5対1で私を擁護してくれる人も居ないので、ひたすら叩かれ続けた。
それから数日は、私は怒りと悲しみで頭がおかしくなりそうだった。なぜ彼らの事を思ってやったことで、こんなに彼らに嫌われなくてはならないのだろうか。彼らには私の気持ちは伝わっていなかったのか。どうして彼らは分かってくれないのか。もう彼らの事が「信じられない」と思った。
そこでふと、「信じられない」という言葉が引っかかった。「信じられない」というのは、相手の事か?相手が悪いのか?いや違う、「信じられない」というのは「自分が」「信じることが出来ない」という意味だ、と思った。
信じることは、自分だけで出来る。相手を信じることが出来ないのは、あくまで自分の問題だ。相手がどんな事を言っていようが、自分が信じることさえできれば信じていることになる。私は彼らを信じたいと思っているのだから、それは自分の気の持ちようでどうにかすればいいことだ。相手を「改善」する必要は何もないのだ。
そこまで考えて、一気に気持ちが楽になった。彼らが私を嫌おうがなんだろうが、私は彼らに愛情を注げばいい。しかしもちろん、もっともっと注意深く、より彼らのためになる方法で。
さて、私の聖人アピールはどうでもいいので、「信じる」について考えよう。「信じる」は自分だけで出来るが、しかし自分で完全に制御できる事ではない。「信じたい」と思うことまでは出来ても、それで信じることが出来るかどうかはまた別である。自分の心が「信じられない」と主張しているのであれば、それは実際信じていないのである。「信じることが出来ている」ということがイコール「信じている」ということなのである。そしてそれ自体は「感覚」である。感覚(や感情)であるということは、他の要素からは反証不可能であるということを意味する。気温が低くても人が暑いと感じているなら暑いのであり、それは外気温とは全く関係なく成立する事である。それと「信じられる」は同じものだ。そして感覚に「気のせい」はない。感覚とはすなわち気だからだ。
キリスト教でいうところの「神を信じる」というは、「神を感じる」ということなのだろうし、実際神を感じている人がたくさんいるのであろう。それは、自分の中の体験なのだから、本人たちが感じているのであれば感じているのである。
信じることが出来るかどうかは、何によって決まるのだろうか。信じたいと思う気持ちと、信じたことで良い結果になった経験の兼ね合いになるだろうか。片方が弱ければもう片方がより必要なのかもしれない。この話は、また別の機会にすることにしたい。
(一旦終了。以下雑談)
「信じる」と言えば私にとってはこの曲、という曲があるので、是非ともどうぞお聞きください。ゲーム「MOTHER」のアレンジアルバムより、「 Pollyanna (I Believe in You) 」です。私はあの日以来、涙なしには聴けません。
https://www.youtube.com/watch?v=vBbRJoHTJAM
歌詞、訳を掲載しているサイト
http://tamagokake.hateblo.jp/entry/2015/03/25/092757
一番を抜粋引用します。
"朝日はまた輝くって信じてるし、
虹の終わりには金のツボがあるって信じてる。
バラは露にキスされるって信じてる。
同じように、あなたを信じてもいいでしょう?
架空の童話やお守りを信じているし、
十字に誓ったあなたの約束を信じてる。
空はいつまでも青いって信じてる。
同じようにあなたを信じていいでしょう?
私のことをあなたはバカだというかもね。
変でおかしいって、ポリアンナと呼んだっていい。
希望の光を信じてる。それがあなたを信じる理由。"
言葉の取り合い
ずっと考えているけどまとまらない色々な話があるのですが、考えていてもまとまらない気がしてきたので、書けそうな所から順次書いて公開していきたいと思います。まとまらないんだけど、なんだかどれも関連があって、それらの関連性も含めて述べるべきではないかとも思っていたのですが、それは後からやる事にしたいと思います
「生命とは何か」という問いがある。そして例えば、ウイルスは生物であるとか生物でないといった議論がある。しかし私はこれに少し妙な印象を覚える。これは、必ず一つに決めなくてはいけない事なのだろうか。ここで、ウイルスを含まない方を「生命a」と名前を付け、含む方を「生命b」と付ければ、少なくとも議論上の齟齬は解消するはずである。「生命をこのように定義すればウイルスは入るし、このように定義すれば入りませんね」で話は終わりのはずである。そんなに目くじら立てて論争するようなこととは思えない。にもかかわらず多くの人は、何かしら客観的な基準において、ウイルスは含まれるとか含まれないといった事が判定できると感じているかのようなのである。
突飛かもしれないが、これが意味することは以下のような事であると考えられる。我々は生命とは何かを実はすでに知っている。いや、知らないはずだと私は思うのだが、知っていると信じているのである。そして、知っている「生命とは何か」に合致する定義を探している。「生命」という言葉を、好きなように定義していいものだとは考えていない。自分の知っている「生命」と同じでなくてはならないと感じているのである。
このような、「自分の知る言葉が、自分の知っている通りの意味に結びついていて欲しい」という欲求を、私はどうでもいいものだと思っていた。逆から見れば、言葉というのは、定義次第で任意に決められると思っていたということだ。しかし、もしかしたらそうではない(どうでもいいことではない)のかもしれないと思い始めた。
例えば「DQNネーム」という言葉を「キラキラネーム」と呼び替える動きがあった。これには明確に「独創的な名前を付けることを肯定的に捉えて欲しい」という気持ちが含まれている。替えて欲しいと思うということは、変わることに意味があると思っているということだ。これはすなわち、「言葉が変わっても中身が同じだったら意味は同じではないのか」という問いに対して「同じではない」と答えるということだ。似たようなことは、例えば「障害者」を「障がい者」と呼び替えようみたいな動きにも見て取ることが出来る。
別のパターンとして、言葉そのものを無くしてしまうという方策もたびたび取られる。例えば「どもり」(吃音とも言う)という言葉がある。話し始める際に言葉が上手く出てこず、詰まったような音を繰り返してしまう状況及びその人を指す言葉である。今では差別的意味合いがあるとされ、おおやけには使われなくなった。使われなくなったが、その症状(?)を持つ人が居なくなったわけではない。実際身近にも何人も居る。しかし、それを意識すらしない事が増えたし、私以外の人も、気にしている様子はない。実際、気付いていないかもしれない。断言できる事ではないが、言葉がなくなったことで、「症状」すらも消滅したのではないかと感じる。恐らく、「コミュ力が低い」などの、別の何かの概念に吸収されてしまったのだ。その意味では、確かに差別語を禁止することで、差別がなくなってるのかもしれない。
言葉は「概念を表現するための手段」ではないのかもしれない。それ自体が良し悪しを持つ「思想」のようなものであるのかもしれない。「生命」が自分の知っている通りの「生命」であって欲しいということは、自分の思想に共感して欲しいであるとか、悪く言えば自分の思想が他の思想より優位であること示したいということのように思える。
いや、そう思っているのがむしろ普通なのかも知れない。生命を「生命a」と「生命b」に分けて良いという発想自体が、ある種訓練されて出来たものである。ここには、それらに優劣を付けようという発想はない。ただ、二つの概念があり、それらに別の名前を付けて区別しようという意志があるだけだ。
考えてみると、「どもり」という言葉を知っていたとして、それを単なる症状として捉えるならば、言う方も言われる方も不快にはならないはずである。風邪をひいて頭が痛い時に、「頭痛がある」と言う方も言われる方も特にそれで傷ついたりはしまい。あるいは「ハゲ」はどうだろうか。髪の量が少ないことは客観的な事実として認識しうることである。しかしそれを言われると傷つき、であるからこそ言う事がはばかられるのは、そこに「ハゲは良くない事」という思想が背景にあるからだろう。ただ「違う」のではなく、「優劣」を感じさせている。
優劣を付けようとしているということを、分かり合うことを拒否していることだと考えてみる。自分の持っている定義の方が優れていると思っていない人は、「生命a」、「生命b」と名付けることに躊躇はない。しかし自分の定義の方が正しいと思っている人は、それを許容できないのではないか。
こういう、「言葉と意味の対応」について争うことを「言葉の取り合い」という名前だとするならば、言葉の取り合いは、分かり合おうとしている人達にとっては不毛な争いだが、実際には分かり合おうとしている場というのは人間にとって極めて限られた局面でしかなく、言葉の取り合いをすることによってまさに思想の戦いが行われており、そしてそれが人間にとってかなり重要な戦場なのではないだろうか。
(一旦終了。以下余談というか、自分用でもあるメモ)
・この話の中で、分からなくて飛ばした部分がある。それは「知っている」についてだ。私は「知っている」とは「知っていると信じている」ことなのではないかと思う。「信じる」については言いたいことがあるので、それを次に書きたいと思う(予告)。
・上記に関連したメモだが、「数学は演繹で出来ている」のだが「最初の数学は演繹…というか、公理系から出来たわけではない」のだと思う。
・そもそも「○○とは何か」という問い自体が何を意味しているのかが分かっていないように思う(分かる事なのかもわからないが)。「内包」「外延」などについてなんとなく勉強してみたが、何か話せるほどよく分かっていない。
・コンピュータと人間のコミュニケーションの違いは何かと、自分の授業のために考えていた。ひとまず出した考えを載せておく。人間もコンピュータも、プロトコルに基づいて情報が受け渡されるが、人間には完全に共通のプロトコルは存在しない。そのプロトコルセットは、開いた系である。それに対してコンピュータのプロトコルセットは閉じた系である。しかし人間は人間同士のプロトコルセットが、不完全ながらもある程度共通していると信じており、それによって誤解を生みながらもなんとかやり取りをしている。今回の話で言うと、言葉に対応する概念が一意に定まっている状態が、閉じた系の状態である。閉じた系のプロトコルで情報をやり取りする時には、送り手と受け取り手の情報は一致する。しかし開いた系を用いている人間にとって、送り手と受け手の情報は一致しない。この場合、情報を「生み出す」のは、受け取る側である。この話も、どこかでしたい。今書いた以上の発展はないかもしれないが。
・「シニフィアンとシニフィエ」とか「言語ゲーム」とか「サピア=ウォーフの仮説」などの言葉について知らないわけではなく、そういう既にある議論を引用した方が良いのだろうとは思うのだが、このエントリにも関連する話だが、「名前を付けると分かっていることのように感じる」のだが「私の意識としてはとにかく分からないと感じている」ため、使わないことにした。いや、単に良く知らないというのもあるが。
暗記がしたい
「暗記がしたい」と最近思うようになった。
歴史の勉強をする時にこんなことを言われなかっただろうか。「覚えるためには、それぞれの項目を丸暗記するのではなく、歴史の流れの中に項目を位置付けなさい」と。しかし何かがおかしい気がする。歴史の勉強の本当の目的は流れを知ることではないのだろうか?そもそも、項目を知ることは流れを知らなくても出来るが、流れを知るためには項目を知ることは必須なのではないだろうか?
項目の名前は、それ自体を知るためにあるのではなく、それを使って知識同士を接続するためにあるのではないか。「AならばB1である。B2ならばCである。よってAならばCである」と言う為には、別々のどこかに出てくるB1とB2が同一であることに気付かないといけない。
私はもともと「暗記否定派」だったので、暗記をないがしろにしてきた。よって例えば国の名前とそれがどこにあるかとかを致命的に覚えていないので、そういう知識が繋がってくれなくて、これは非効率なのではという気がしてきた。そこで、がっつり、中学生がやるような暗記をした方が良いような気がしてきた。……やってないけど。
以前の私は「インターネットが発達して、知りたい事は知りたくなった時に検索で見つけられるようになったため、暗記の価値は減った、あるいは無くなった」と思っていた。そして、他にもそう思っている人は多いのではないかと感じている。しかし、ちょっと前からそう単純な話でもないと思うようになった。なぜなら、そもそも「知識を得るには知識が必要だから」だ。とすると、暗記はそれ自体が目標なのではなく、さらなる知識を得るための下準備だ。
極端な例で考えてみる。例えばある言語を習得しないと、その言語で書かれた文章を読む事は出来ない。英語が読めない人は、英語の文献にアクセスしてそこに書かれている知識を得る事が出来ない。もちろん、日本語が読めない人は日本語で書かれた文献を読む事は出来ない。では我々日本人は、日本語で書かれた文章であれば読む事が出来るのかというと、どんな文章でも読める訳ではない。自分の専門外の専門書を読んでみれば、ちっとも分からないし読めない事がすぐに分かる。日本語でも、知らない単語ばかりの文章は読めないのだ。
というわけで、暗記がしたいと思うようになったのだが、今書いてても良く分からない事がある。インターネットの検索機能によって暗記しておかなくても良くなったことというのは確かにある気がする。「暗記しておくべき知識」と「暗記しなくていい知識(必要になったら検索で探せばいい知識)」というのは、なんらかの基準で区別可能なのだろうか?これまでの話からすると、「知識を繋ぐような知識、ハブになるような知識」は暗記した方がよさそうと言えそうだ。しかし、それってなんだろう?
2015年まとめ
もうこのブログの書き方忘れた。
書いた文章
ちゃんと話がまとまった(比較的)ものは新ブログの方に乗せているので、雑多なものを今日の分として載せておく。雑多って言いながらもめっちゃ苦労して書いてたりするんだけど。
音楽
サカナクションと、マイケル・チャンさんの即興を特に聴いていた気がする。
あとは、ネクロダンサー(ゲーム)のサントラを割と聴いてました。
自分で投稿したのは、「この傘をたためば」だけかなあ。これも、数日でやったもので、そんなに力が入っているわけではない。
本
もっと色々読んだ気がするんだけど…「言語哲学大全」とルーマン関連本が難しすぎてうんうん唸ってた記憶が強い。それであんまりたくさんは読めなかったのかな…。あと、一日ぐらいでダダっと読んだのだと印象に残って無かったりしてな…。図書館で借りた奴は、返却期限が迫るとメールで注意してくれるので、そのログを使った。だから早めに返したのは補足出来ない(笑)。
(大体)通して読んだもの
- 炭水化物が人類を滅ぼす
- 食の世界地図
- ルーマン 社会システム理論 「知」の扉をひらく
- 貧困のない世界を創る
ゲーム
いろいろやった。昨年末にSteamで積んだのをやったのが大きかったかな?
- テラリア
Steamにて。マインクラフトを2次元にしたようなもの。100時間以上もやってた。割と戦闘ゲーム?だった気がする。ヨーヨーメインで戦ってました。ムーンロードは倒してない。その前のイベントで止まってる。クラフト要素、例えば家を装飾したりすることには全く興味が持てないあたり性格が出ている。
- Crypt of the NecroDancer
クリプト・オブ・ネクロダンサー。Steamにて。ローグライク+音ゲーとかいう異色作。面白いよ。すげえ集中力使うから疲れて帰ってきた夜とかに出来ない感じだった。
ケイデンス(ノーマル主人公)でオールゾーンモード(普通のストーリーモードみたいなの)をクリアするところまではやった。
音楽が要なわけで力入ってて、サントラも一緒に買ったので音楽だけ先に良く聴いてた。
- Legend of Grimrock
Steamにて。現代版ダンジョンマスター。いやーこうワクテカして始めたんですけど、楽しめはしたんですけど、盛り上がり切らない印象でしたねえ…。せっかくの要素が使いきれてない感じする。いや、それでもやるけどね(笑)。一応クリアしました。
- ポータル
Steamにて(Steamの運営会社がこれを作っている)。異なる場所の空間を接続して移動するポータルガンを使ったパズルゲーム。最初、「こんな全編チュートリアルみたいな感じで終わっちゃうの?」と思ってたんだけど、後半に期待していたような展開があって良かった。すげえ鳥肌立ったゾ。
- McPixel
Steamにて。この動画を見れば良く分かります。バカバカしすぎて病んだ心に癒しになります。
【ゆっくり実況】不屈と挑戦のMcPixel ‐ ニコニコ動画:GINZA
- Papers, Please
Steamにて。入国審査ゲー。間違い探し的な。これもこの動画を見れば分かる…んだけど、正直割と気が滅入って続けられなかった。またいつかやる。
【ゆっくり実況】出会いと別れのPapers, Please(beta) ‐ ニコニコ動画:GINZA
- 出版社/メーカー: 任天堂
- 発売日: 2013/12/26
- メディア: Video Game
- この商品を含むブログ (47件) を見る
- 出版社/メーカー: 任天堂
- 発売日: 2011/11/03
- メディア: Video Game
- 購入: 32人 クリック: 1,160回
- この商品を含むブログ (181件) を見る
- 出版社/メーカー: 角川ゲームス
- 発売日: 2010/07/29
- メディア: Video Game
- 購入: 3人 クリック: 36回
- この商品を含むブログ (21件) を見る
クラウドゴンとの戦いが印象に残っている。なんか猛吹雪で戦車から降ろされて強烈だった。やっぱゲームは難しくないと印象に残らないってことかなあ。
3DSダウンロードソフト(400円)。ロックマン+グラディウスのパワーアップシステム、なんだけど、8割方ロックマンやね。
廉価の割にキャラ絵とかボイスとかに力が入っている、と捉えるべきなんだろうけど、その辺りはあまり興味が湧かず…。あ、でも音楽は好きだった。あと、一人用ポーカーがゲーム外のミニゲームとして入ってて、それがなかなか平凡ながら楽しい。
2もあるんでそのうち買おうねえ。
DSiウェア。そう言えばDSiの資産も3DSで買えるんやと思い。一個買ってみることにした。ミニゲームでレベルアップするRPG?なんだが、それなりにミニゲームとRPGがモチベーションを相互に高めていて上手い作りだと思う。
ミニゲームはかなりたくさん有るんだけど、その中の「正方形陣取り」にめっちゃハマった(と言っても実時間は大したことないが)。自分が覚醒したかのような猛烈なスピードでタッチペンを動かすのは快感だったぜ。
…なお、あともうちょっとと思われるところでクリアしてない。
3DSダウンロードソフト。GBAの時に買った「ガンスタースーパーヒーローズ」がどうにも中途半端な作品だったので、じゃあ原作もやってみますか、ということでやってみた。
面白かったけど、期待し過ぎた感はあったかもしんない。3D表示は良く出来てたと思う。
3DSバーチャルコンソール。これはファミコンソフトの中でも今でもプレイに耐える作品の一つだと思う。アクションとパズルのバランスが絶妙。…ということが分かっていたので割と安心して買った。まだまだあんまり出来てない。まあまたそのうちやります。