「誤解されやすい人」は誤解されないように注意している人である可能性が高い

「誤解されやすい人」と言われる人は、多分普通の人より「誤解」されることは少ない。「誤解」とは、「実体と違う理解をされる」という事である。「誤解されやすい人」はおそらくちっとも誤解されていない。どうしてかというと、「実体通りに理解されるまで、相手に『理解できる』という印象を与えないようにしている人」だからだ。


いわゆる「誤解されやすい人」と呼ばれる人は、物言いがキツく、どんな相手にも本音をズバズバいう人だ。そういう人を「誤解なく理解」するのは、普通の人より簡単である。そこで出しているその人間がその人の全てだからだ。むしろ愛想を振りまく一般人の方が「誤解」されやすい。もちろん、「良い人だと思っていたが酷い人だった」という方向にだ。ただし、愛想をふりまかない人ほどいいという話でもない。私が指摘する問題は「理解できない」を「悪い」と思う感覚だ。「理解できない」はただ「理解できない」でしかないはずなのに。


これをテスト問題の作り方を例にして考えてみる。テスト問題は、受験者の理解を問うように作るのが普通である。授業でやった問題と全く同じ問題を出したとすると、問題が解けていたとしても、「その問題だけが解ける」のか、「その問題と同種の問題は全て解ける(理解している)」のかを判別する事が出来ない。であるから、普通は、授業で出てきた問題と同じ考え方で解ける別の問題を出題する(とすると、その問題を複数集めてそのパターンを覚えるという人も出てきて、また真に理解ができているかどうかを判別するのは難しくなっていくのだが)。


しかしテスト問題には、「点をあげる問題」というのもある。生徒にとって、あまりに点数が低い結果はやる気を損なうので、理解の出来ていない生徒にも少し点をあげることが望ましいという事はあり得る。理解しているかを確認することはできないが、そもそも学習の意欲が無ければ理解しようという気も起きないかもしれない。ただし、そういう問題が解けることが勉強する事だという誤解を与えてしまうことはまずいことなので、出題する側はそれを分かった上でその方が良いと思ったら与える、という判断が必要になる。


もうおわかりいただけたと思うが、「誤解されやすい」と言われる人は、「理解できてないと答えられない問題しか出さない」人である。それは、相手に「真のコミュニケーションを望む」という点で真摯な態度である。適当な相槌で流されてなるものかという意思が含まれている。


無難なコミュニケーションというのは(悪い意味で言っているのではなく、普通は初対面の人とは無難なコミュニケーションをするのが望ましいと考えられる)、テスト問題で言うところの、「点をあげる問題」である。出会ったばかりの人と、「会話をしたい」というモチベーションを与えるための、確認作業と言っても良い。それは局面によっては十分に機能するだろう。ただし、それはコミュニケーションの入り口にすぎないので、そういう会話をすることがコミュニケーションだと思い込んでしまったとしたらそれは問題である。


「誤解されやすい人」は、愛想を振りまく事がリスキーである事を知っている人である。相手が勝手に自分を高く評価して、勝手に幻滅する事を避けようとしている人である。ただし、それが「本当のコミュニケーションの出来る相手を一番多くする方法である」かというとそうとは限らず、愛想が不要というわけでもないのである。愛想は本質ではないけども、本質ではない事を分かった上で使う分には、役に立つのである。




(追記2010/10/29)
ここで言う「誤解されやすい人」は「他人に『誤解されやすい』と言われる人」の事である.そして自分で「自分は『誤解されやすい』と思って悩んでいる人」は,実は「誤解されやすい人ではない」ということを言っている.