性格の悪い人は他人の醜い面を知る

昨日の話の続き。


お互いが相手と仲良くしようというモチベーションを持っている時、相手の話を本心から理解していなくても、「理解した」という反応を返してあげたくなってしまうため、相手を正しく理解するのが難しくなってしまうことがある。


「相手と仲良くする」ということが至上命題である人が居たとすると、その人と話す人はいつまでも試験を受けない。すなわち、「本当に理解して聞いてくれている」のか、「理解できてないけど仲良くしなきゃと思っているからうなずいてくれている」のかは、「仲良くしようというモチベーションの無い状態ではどう反応するか」を試してみない限り分からない。


ただし私はそうやって相手を「試験する」のがいいとは思わない。世の中には人を試すということを嬉々としてやる人が結構居るのだが、私はそれが嫌いである。おとり捜査は日本では適法ではない。何も無ければ相手を悪人にしないですんだのに…という事をやるということだ。ただ、それが合法な国もあるように、それをしても良いという人も居ていいとは思う。なぜ私が人を試すのが嫌いかというと、自分にそんな権限はないと思うからなんだが。


さて、人から嫌われている人は、周りの人から仲良くなりたいと思われていないと考えられる。そうなった場合、実はむしろ相手の本心(本性)を知ることができるだろう。相手はこちらを気持ち良くさせる必要が無いのだから、理解したくないことまで「理解した振りをしてあげた方がいいかな?」と考える必要が無い。ある意味、相手を試し続けていることになるのだ。


ここで残酷な結論を出そう。人に辛辣なことを言われる人は、その辛辣なことの内容にいくら反論したって無駄である。人に辛辣なことを言われないようにするには、まず相手に好かれることである。嫌われてるから辛辣なことを言われるのである。


ただし、それが分かった上で、「自分のことが嫌いだからひどいことを言っている」のか、「愛想で誤解されないように誠実に言っている」のかはちゃんと見分けなければいけない。でも、その判断は多分そこまで難しくないと思う。そして、その相手のことが自分も嫌いであれば、別にそのままの関係でもかまわない。