Twitterはどんなサービスか(その2)

昨日の続き。

今回話す事

前回はTogetterがまとめられた意図と、議論が混乱してしまっている原因について解説した。今回は本題として議論したかった事について考えていく。すなわち、

  1. Webでは引用元を示すべきか
  2. twitterでは引用元を示すべきか
  3. twitterで引用元を示すのにはどういう手段を使うべきか

のうちの2だ。1に関して言えば「示した方が良い」に決まってるし、3に関して言えば「本人が書いたのではないと分かる手段なら何でも良い」ということで皆の合意が取れているようだからだ。3に関して色々な主張の人がいるように見えるかもしれないが、手段の違い同士で揉めている訳ではないという事を確認して欲しい。あくまで無断コピペした人との対立なのだ。


手段同士の違いが対立していないというのは実は重要な点だ。上記のコメント群の中には「括弧で囲って自作でない事を示す」という手段も提案されている。これはそもそも引用元を示していないという点で、リツイートなどとはかなり引用としての厳密さが違う。しかしこれについて引用元を示すべき側から批判している人はいない。もちろん「リツイートしろ」という人の主張にはそれが含まれているのかもしれないが、それが明確に読みとれる形の主張は見当たらない。分かるのは、「本人が書いたのではないと分かる手段にしろ」という主張と「別にそんなの要らない」という主張が対立した事までだ。それが上記の2という訳だ。

コピペが非難されるのはなぜか

上記の事を踏まえると、実はコピペを非難している人達は、引用元のオリジナルに敬意を払えと言っているのではなく、コピペで人気を集めるのはずるいからやめろと言っている事が分かる。そして、それはつまり「自分も人気を集めたいと思っているが、他人の威を借りてまで人気を集めようとするのは恥ずかしい」と思っている人がたくさん居たということだ。


これについて私がまず思った事を最初にツイートしたので載せておく。

うーんコピペで出典示すべきと言うより、ふぁぼられることの優越感、ふぁぼられない事への嫉妬が問題なのではないかな…。自分で考えたことでないことが褒められても別に嬉しくないと思ってるんで。http://togetter.com/li/41362

私は、非難している人は「オリジナルに敬意を払え」と言っているのではなく、嫉妬しているように感じたのだ。



無断コピペの心理

それに対して、無断コピペした人の心境は三通り考えられる。

  1. 自分は面白いものを広める事で自分の周りの人に喜んで欲しいという意図しかなく、他人の言を引用したことで自分の人気が高まったなどとは感じていない
  2. 自分は「面白いものを広めるという行為」において自分の人気を高めたい
  3. 自分は面白い発言をする人だと言う人気を高めたい

まとめられた当時、私は1のケースにおいては、無断コピペが許される事があり得るんじゃないかと思った。もし、2や3の意図であれば、皆の言うようにリツイートなどを使うべきであろう。しかしtwitterが「自分の人気を高める事を目的としたコミュニティ」だという合意がなされた覚えはない。もしみんなが1のような気持ちで使っているならば、今回のような騒動は起こらなかったはずだ。引用元をちゃんと示すようにというレベルの議論はあったかもしれないが、今回はそこに皆が重点を置いていないことはこれまでに示してきた。


しかしコメントの中で、無断コピペをした人は途中から謝りだした。これについて私は残念に思った。私はこの人は1のケースについて言いたかったが、それを説明する力(あるいは労力)を持たなかったのかなと思った。まあ、実際は人気を高めようという気持ちが有って、それを指摘されたから素直になることにした、という事かも知れない。それはそれでいいのだが、本来議論するはずだった事を議論できずに、話が終わってしまったのだ。


匿名性と個人の名声

前回述べたように、匿名性の度合いと、そこでの発言が個人の名誉に繋がるかは関係がある。しかしtwitterはそもそもその度合いがあいまいなのだ。前回の話を一部引用する。

twitterはローカル(mixi的)とグローバル(2ch的)の境界をあいまいなまま扱っているコミュニティである」と書いた。実際友人ばっかりフォローしている人もいれば、有名人ばっかりフォローしてる人もいるだろう。この多様な使い方が考えられるというところが、今回の話のキーポイントである。

つまり2ch的な気持ちで使っている人だって居るはずで、それを別にtwitterがダメと言っている訳ではないのだ。第一botなんて人格を持たないではないか。twitterは確かに2chとは違うが、その違う特性があるから2ch的に使ってはいけない、というのはちと強引だ。

twitterはどうあるべきかという議論

もし、無断コピペをした人が、人気なんて何も気にしていない、2ch的な気持ちでtwitterを使っていたならば、少なくとも本人にとってはやましい気持ちは無いはずだ。もちろん引用を示さなかったというレベルでの反省はあるかもしれないが、「人気を稼いだ」という感覚は自分で否定できたはずだ。


今回の議論は、twitterにおいて「人気を稼ぎたい人達」と「そんなこと気にしてない人」が、「twitterはどういう使い方をするところなのか」を議論するはずだった。それによって、コピペの是非について決着がつくはずだった。


しかし結局、あのTogetterでは、大して有用な議論はなされなかった。それは無断コピペをした側の人が、問われている問題をちゃんと把握して説明する事が出来なかったからだ。しかしこれは元々「コピペ可」側にとっては不利だったせいもある。私が今回したように、問題を細かく切り分けないとコピペが可なケースを説明するのは難しいが、「出典を示して欲しい側」は、いろんな理由からその正当性を担保され、適当に発言しているだけで主張を通すことが出来てしまったのだ。

そして私が分かった事

私が分かったのは、togetterにもコメントした以下の分だ。

ちょっと本題とは違うのだけど、被フォローなりふぁぼなりの数を競ってるという意識があるんだなというところ自体が面白いと思った。 「友人がたくさんいる事が偉い」「面白い発言が出来る事が偉い」という文化に、ドラゴンボールでいう戦闘力みたいな目に見える数値を導入した事が、ツイッターを盛り上げているのかもしれない。 我々はツイッターで「友人拡大ゲーム」をやってるのかなみたいな。

どうあるべきかという話はともかく、多くの人にとって、twitterは「自分の人気を高める事を目的として」使われているようだ。


自分の人気が高まった事は、数値として明確化される。被フォロー、リツイート、ふぁぼの数などでだ。それによりモチベーションが上がる。更に、人と比べる事で優越感を感じる事が出来、それを競う事でゲームになる。


そしてその数値の大きさは何を意味するかというと、それは友人を作る能力、または友人の中で認められる能力なのだから、いまやどこに行っても最重要視される「コミュニケーション能力」に非常に近いのではないか。みんなが気にする最重要パラメータを数値化し、参加者がそれを増やそうと日々しのぎを削っている場、それがtwitterなのではないか。

別の話

ここまでで本題は終了したので、他に気になった事を。

管理者の不在

togetterを見れば分かるように、twitterのあり方について、利用者同士で話し合って決めようとした。しかしこれが自然に受け入れられているという事は極めて特殊な事ではないだろうか?


これについて私は最初は「twitterの運営者に聞いたら?」と思った


だって運営者が決めてくれれば議論する必要が無いではないか?一般的に議論は「正解が分からないから推論によって良い方向に近付けよう」という性質の物であるのだから、正解を確認出来るものがあればそれこそ議論の余地はない。なぜそうしないのか。


これは、「大きくなったWebサービスは、運営者より利用者の意思が優先される」という事をみんなが信じているからではないかと思った。


そしてもしかすると、これは最近テレビで見たサマーウォーズのテーマとも関係あるのかもしれない。パニックが起きたOZをなんとかしようとするのは、OZの管理サイドではなく、主人公ら利用者だ。


まあサマーウォーズに関しては私は見ただけでは良く分からなかったので、以下のサイトを読んで話してるだけなのだが。

参考(追記)

他のサイトのも。

この辺も考察して語りたかったけどもう先にもっと進んだ話があったので。