「リーダーは馬鹿がやらされるもの」だとしても

ふと、自分のトッカティーナの演奏を聴いて、当時の事を思い出していたのだけども。

これは大学2年の学園祭(10月)で弾いたもの。当時は随分ミスったと後悔していたのだけど、結局これ以上の演奏が出来た事は無く、私の演奏技術はこの時がピークだった事になってしまっている。でもまあ、それはそんなに暗い話ではない。


大学一年生の時の私のピアノへの情熱は、もう今思い出しても実感が無いぐらい強く、ほんとうに毎日熱心に練習していたと思う。大学1年の9月にデビューコンサートで黒鍵のエチュードを弾き、まあまあかなっていう演奏が出来て、そこから一年ちょっとかけてずっとこの曲を練習していた。私はこの先どんどん上手くなって、ついにはホロヴィッツ編曲のような曲も弾きこなすようなるのだと思っていた。


でも私は1年の1月から芸サ連に入り、本当に忙しくて、ピアノを弾く時間が以前ほど確保できなくなってしまった。今でこそ笑って話せるが、当時の自分にとってはしゃれで済むレベルでは無かった。周りで見ていた人は私のあっぷあっぷ具合を覚えているかもしれない(私はもう結構忘れたけど)。これは今は言うのちょっと恥ずかしいんだけど、組織6人のうち4人が一年間で入院を経験したというところである程度示されていると思う。もちろんそれらはそれぞれの理由であり、これによる心労とは言い切れないのだけど。


芸サ連の仕事というのは「誰かがやらなきゃいけない事」であって、それをやって称賛されるという様なものでもなく、明確な利益があるものでもない。当時は日夜「なんで私がこんなことしなきゃいけないんだろう」と悩んでいた。それも特に私はピアノに真剣に取り組んでいたという自負があったので「もっと本腰を入れて練習してない人がやってくれればいいのに」と思っていた。「私は演奏に注力して、別の人がやってくれた方が全体として利益があるんじゃないの?」とも思っていた。


であるから、皆の活動というのが本当に「私に支援される価値があるものか」ということシビアに見ていた。これも今言うのは恥ずかしいのだけど、ライブであんまり酷い演奏をした人にヤジを飛ばしたことすらある(当時の尖り具合がそれで分かっていただけると思う)。逆に、真剣に練習に取り組んでいる人を見たときは本当に嬉しくて、救われた気持ちになったものである。あれは石の広場で夜中に練習していたギタマンの同期に会った時だったかなあ。


もちろん今にしてみれば、たとえば私の同期というのはもう就職していて、それでずっと音楽活動を続けている人もたくさんいるわけで、時間の使い方という意味ではいくらでもやりようはあるとも言える。というか、そう言われたら、反論するのは恥ずかしいことになってしまうだろう。だからむしろこの演奏を聴いた人にこれが「片手間で出来る演奏か」ということを判断してもらいたい。


この曲を練習している最中に、私は芸サ連の2年目に副委員長として残ることを決めたのだけど、その時にはもう覚悟は決めていた。どうも私はみんなのために働くのは嫌いではないし、実際他の人がやるより上手くやれるんだなと思った。その時は、ピアノに関しては割と大きく諦めた。というか、心が折れてしまったと言った方がいいかもしれない。この演奏は「お前らを支援してる私に、まさかお前ら支援される側が劣っていないだろうな?」と言いたいがための最後の意地みたいなものだったのだと思う。


さて、これでは性格の悪い人なので、もうちょっと建設的な話をしたいと思う(笑)。


私は最近「リーダーは馬鹿がやるもの」みたいな風潮を感じている。リーダーという肩書を喜んでる人なんて馬鹿だけで、賢い人は自分のやりたいことをやるために、重要なポストにはつかない、というようなことである。これは、はっきり言って一理あったりするので耳を傾けないわけにもいかない話である(笑)。若者が出世したがらないというような話でもある。責任に収入が見合わないとかの。ましてや学生組織でリーダーなんかやっても、もともと収入があるわけでもないのでなんのメリットもない。そのくせ批判だけは誰より受けることになる。そんなものやりたいだろうか。だから「うまく役職を回避するのが賢い(得)」というような話が大手をふるっている。


これはもちろん分かる話なのだが、私は「得をする」事など「賢い」とは思いたくも言いたくもないのである。自分が提供できるすべてを惜しみなく皆のために与えられて、それがみんなの役に立つような状態を「賢い」と言いたいのである。もしその人が個人活動が凄く得意でそれが一番の貢献になるというなら、もちろんそれも悪くはないのだけど。そして、「みんなのため」という誇りのためだけに、みんなが必要としてもいない仕事を増やして満足してもいけないのだけど。


最近自転車の駐輪状況に対して苦言を呈したのだけど、これも同じような話で、「なぜお前は自分の時間が他人の時間より重要だなどと思うのだ?」というような不満なのである。逆に言うと、その人に物凄い生産性があって、他の人とは生きてる事の価値が違うとまで感じられたなら、それを認めない事もない。そういう人のサポートをした方が、自分が何かを生産するより効率が良い事はあり得る。でも、そうじゃないだろと言いたいのである。


現役の後輩達も、きっと私と同じような苦悩を抱えて活動しているのだと思う。そういう人達に言いたいことは、「きっと見てる人は見てる」ということである。たとえその辺の奴らが「そんなの貧乏くじ引かされてるだけじゃん」と言ったとしても、そんな評価はそんな程度の奴らの評価だということでほっておけ。実際私も「なんでこんなに頑張っているのにみんな分かってくれないんだろう」と思っていたし、分かって欲しくて辛い辛いとアピールしていたのだけど、気が付いたら自分の事を認めてくれる人は周りにたくさん居て、そんな心配などしなくて良かったと思ったし、アピールしていた自分を恥じる事になったのである。


ただ、この評価というのは結構くせものなので注意が必要である。評価してくれる人数なんか大事ではなくて、自分が評価されたいと思う人に評価されるのが大事である。また、「自分を評価してくれる人を高評価する」という基準でいると、相互依存になってしまう危険がある。評価はあくまで自分の中で独立して持たないといけない。これは結構難しい。それを実践するコツとかは特に無いが、この原理自体を理解しておくのは大事だと思う。


そういう行い(みんなのための活動)をして得られる信頼というのは、即効性の薄いものだ。だから未来を予測する能力の低い人には感じにくいし、そういう世界を認識した事の無い人にとっては信じにくい物かもしれない。信じていたとしても「なんであいつばっかり…」と思ってしまう事も多いかもしれない。そしてそれが本当に実感できる程の見返りを生むかという事も、実際は随分時間が経たないと分からないかもしれないし、そもそも自分はそれに向いていなくて、その結果は具体的には何も生まないかもしれない。でも最終的には、見返りなんてどうでもよくて、自分が正しいと思った事をやればいいと思う。それでも、その事自体を分かってくれる人はいると思う。(本当に自分が正しいと思ってやっているかというのもまた難しい問題だけど、今回は略)


まあ、これだと「努力は報われる」という話みたいで、ちょっとキモイ感じに聞えるかもしれない。なので、少なくとも私が言える範囲の事に直しておくと、「そういう人を私は高評価する」ということになる。この発言が意味を持つのは、私が「私に評価されると嬉しい存在」であるときだけだ。なので、私はそう言いたいがために、なんとかそういう存在になろうといつも思っているのである。


最後に。心が折れてしまったと言ったピアノだけど、今は割と熱心に弾いているし、弾き語りという形態にも挑戦して楽しくやっている。弾き語りを始めた理由は「まだ人生長いし、新しいことしたいな」ということである。あの時は今が全てのように感じていたけど、それは視野が狭かったのだと思う。