自分という観客

(旧ブログからの転載と若干の修正→ 旧記事)

 

「芸術は自己満足になってはいけない」「見てもらってナンボ」というような事を言う人は多いけど、私の感覚的には、芸術って自己満足をするためにというのが第一の目的なのではないか?と思っていた。多分これは「自己満足」という言葉の捉え方が違うせいで齟齬が生じているんだと思う。なのでそのことについて解説したい。

 

以下、私は音楽の事ぐらいしか分からないと思うので、基本は音楽の話として書くのでそのつもりでよろしく。


私は演奏をしようとするときに、出来れば「これまでこの世に無かったもの、その中で、自分にとって存在して欲しかったもの」を作り出そうと思っていて、それが芸術的態度だと思っている。それは、作曲やアレンジするというだけでなく、既存の曲を演奏する時でもそういう気持ちでやっている。いや、そうあるべきだと思っているだけで、なかなかそう出来ているわけではないけどね。でも、少なくとも、プロの演奏を出来るだけ真似して弾きたいと思うのではなく、どこか一点でも今まであった演奏(プロの演奏含む)を超えるべきだと思って演奏しようとしている。

 

もちろん、既存のものの真似をすることもあるけど、それは修練という気持ちでやっている。自分の感性を磨いて、自分が表現したいものを出す「いつかの本番」のために、それが必要だとも思っているけど、しょせん練習でしかないという意識である。あるいはそれは、自分で弾いてみるということで作品をより深く知るという「鑑賞」の一種と言ってもいいかもしれない。

 

「習字」と「書道」は何が違うのか?といういつもの例を挙げてみる。「習字」はお手本通りに書くという練習であり、「書道」は芸術であり表現だ。しかし、書道の前に習字をしないやつなんて話にならないだろう。基礎段階としては習字は必要だ。そして、習字も書道もそれぞれに単体で価値はある。というか、普通の人にとっては字を書くという行為は活字のようなきれいな字を書ける方が重要で、一つ一つの文字が心に訴えかけてくる必要はない。そういう意味では習字の方が一般的には価値が認められている。では習字と書道では習字の方が優れているのか?というと、そういう話ではなくて、勝負の土俵が違うのだ。


ここで「乙女の祈り」というピアノ曲の話をしよう。バダシェフスカというポーランド女性の作曲の曲で、多くの人に知られている曲だと思う。この曲のいうところの「祈り」とはなんなのかというと、素敵な(金持ちの)男性と結婚することである。どうもこの曲は結婚を夢見る女性の気持ちを描いたものらしい。いや、実はそれだけには留まらず、どうもこの曲はその結婚のための実用的な目的のために使われたらしい。つまり、この曲を弾けるということで「ピアノが弾ける上品な乙女」を演じることで、旦那様をゲットしようという目的の曲として流行したらしいのだ。

 

この曲のファンには申し訳ないが(いや、ある意味ではこの曲の凄さを表しているのだろうが)、この曲は非常に単調なモチーフを繰り返し、技巧的にも「上辺だけ着飾ったような曲」なのである。耳触りの良さに特化した曲と言ってもいいだろう。技術の割に凄い事やってるように聴こえるのである。繰り返すがそれ自体は悪い事ではない。ただ、実際音楽的にはスカスカの曲として批判されることもしばしばあるのである。

 

何が言いたいかと言うと、これは典型的な「お稽古事」としてのピアノ弾きの例だということである。そこには、曲に対する尊敬があるわけではない。弾いている自分を見てもらうことに主眼が置かれている。

 

私が所属しているサークルであるピアノ愛好会のコンサートを聴きに来る人は、よく「お稽古事」を求めてくる。技術的な不備についてや、解釈がおかしいとか、自分の基準で批判してくる人がたくさん居る。そういう人は自分がピアノを弾いていた時も、「お稽古事」としてやっていたのだろう。まあ、ピアノ愛好会の人がお稽古ごとのつもりでやっていることも多々あると思うが。


後でちゃんと繋がる自信がないが、また別の話をする。ある一つの曲を複数回聴いて、感動する時としない時があるということには同意がいただけると思う。録音物を自室で再生してイヤホンで聴いている場合などは、耳に届く部分までは同じものが出力されているはずだ。でもその曲の評価は聴く度に変わってしまう。それは、その時々に聴く自分の側が同一じゃないからだ。

 

芸術作品はそれ自体価値を持っているような気がするけど、実際はそれを観察する人がいないと価値を持ちようがない。まあ良く考えてみれば当たり前だし、他のものだって大体なんでもそうだ。目が見えなかったら文字に意味はない、とかそういうのと同じレベルの事だ。

 

実際、芸術作品の価値というか感動を与える度合いは、鑑賞側のコンディションに大きく左右されてしまう。それは、例えばその時の気分であったり、他の作業をしていて作品に集中できていないだとか、音楽が主体なのに視覚の情報処理に負荷がかかり過ぎて脳のリソースを割けないだとか(照明を消すと音楽が良く聴こえるそうですよ)。あるいは、そのジャンルへの親しみがなく聴き所が掴めないとか、そもそも歌詞が外国語で意味は分からないだとか、いくらでも条件は変わりうるわけである。

 

自分が同じ曲を続けて聴くのでも、一度も「同じコンディションで聴く」ことはありえない。何より曲は一度聴くと「一度も聴いたことがない曲」から「一回聴いたことがある曲」になってしまう。その何回目が自分にとって最高の感動を与えるかも未知数である。(楽曲の複雑さと繰り返し聴取における快感情の関係、というような研究もあるんですよ)

 

長々書いたが、言いたいことは、芸術はアウトプットするという作者の行為と、それに触れるという鑑賞者の行為の両方があって初めて意味を持つ。共同作業と言ってもいい。片方だけでは感動が生まれるはずがない。

 

コンサートホールやライブステージで音楽を聴いているときには、観客は具体的にも「協力」している関係になる。観客が好き勝手にうるさくしていたら観客自身も演奏者も演奏に集中できない。静かにしていることも協力だろう。もちろん、手拍子などで積極的に参加することもある。演奏者以外の「アウトプット側」のスタッフも、照明を調節して見るべきところに集中を促したりと、総合的に円滑な鑑賞を促していると言えるはずだ。ライブに行くのが好きな観客にしてみれば、横でノリノリになっているお客が居ることも自分が楽しむための重要なファクターなのだろうし。そういう意味でコンディションを整えるということをちゃんと意識してやるべきだ。


さて、冒頭の話に戻る。ここまでの話を普通にとらえると、「多くの人に聴いてもらわないと意味がない」というような話に聴こえるかもしれない。でも私の言いたいことはそうじゃない。もちろん、多くの人に聴いてもらえれば、聴く側の方で感動してくれる可能性は増えていく。しかしそれはしばしば「自分で自分の作ったものを良いと思っていようがいまいが、多くの人に受けさえすればいい」という考えになってしまう。それは一概に悪い事ではない。実際多くの人を笑顔にするのはそっちの方かもしれない。でもそれは芸術的態度ではない。習字の方が芸術より一般的にはウケるみたいなものである。

 

「まさに芸術」という言葉には、芸術というのは凄いものだみたいな意味が含まれてる気がするが、私の感覚的には芸術というのは態度であって、良し悪しの判断は含まない。大体の人は「上手い習字」の方が、「書道」なんかより良い物に見える。「芸術」なんてそんなもんだ。

 

プロであるということは、ウケる(稼ぐ)ことを目的にするということだ。だからプロのミュージシャンは芸術を目指す必要はない。ただ、プロの方が技量が高いがゆえに結果的に芸術活動が出来ているということが多いのはそれはそれで事実なので、稼げる程に凄いことが芸術だと見なされがちなのだ。

 

基本的にはアマチュアの方が純粋に芸術に邁進することが出来る。ウケる事を目指すということは、本当に自分のやりたいことをやる(欲しいものを作る)という気持ちを歪めてしまう。「聴いてもらわなければ意味がない」とことさらに言うのは、「自分で自分の作品を良いと思ってなくてもいい」という考えを推奨してしまう。これはある意味プロ意識に近い。

 

私は自分の演奏の録音を良く聴く。反省のためでもあるが、単純に自分にとっての鑑賞物なのである。私が自分のために欲しいから自分でアウトプットしたのだ。どれも完璧だなんて全く思わないが、自分にとっては価値のあるものであるし、そう思えないならそんなものを他人に聴かせようとしてはいけないという意識がある。そしてそれを「アマチュアの誇り」だと思っている。

 

私が私の曲(演奏)を聴くときには、私は観客である。アウトプットしたものは、アウトプットした瞬間から既に自分そのものではない。当然それを聴く自分のコンディションによって、良く感じたり悪く感じたりする。私という人格とは無関係にそれには価値が(多寡はともかく)あるのである。その意味において「聴いてもらわなければ意味がない」という時の、聴く側の存在は確実に担保されているのである。


まとめよう。

 

アウトプットした物そのものには、アウトプットした人とは独立した価値があると考えるのが、芸術的態度である。アウトプットした人自身の栄誉を高めようとすることは、芸術とは関係のない事である。

 

立場によっては、後者を推奨することはあり得る。プロだったらそれでお金を稼がなきゃいけないから、そういう要素も必要となるだろう。また、大学が学生にサークル活動をさせるなら、出来るだけ大学の名誉を高めるように活動して欲しいのかもしれない。それに迎合するべき時もあるだろう。でもそれは芸術活動として素晴らしい事かのように考えるのはやめてもらいたいのである。

 

「自己満足」だとしても、観客としての自分が満足できれば、それは芸術として成り立っている。しかし表現者として満足するだけではダメである。それは自分のポーズに満足することだからだ。

 

表現をしようとする人は、基本的に鑑賞だけする人より耳や感性が肥えている。だから、自分が満足できるものを作るのもより大変になる。その代わり自分が本気で満足できるものが出来たら、大抵の観客は称賛してくれるはずだ。そういう態度、つまり自惚れが芸術家には必要だと思う。