ジョン・ケージの「4分33秒」を聴いて

(追記)
新ブログの方に加筆修正した完全版を書きました→こちら




2014年2月15日の筑波大学ピアノ愛好会卒業コンサートで、ジョン・ケージの「4分33秒」が演奏されました。それを聴いて、思ったことをまとめておこうと思って伸ばし伸ばしにしてきたのですが、気が向いたので書きます。


ご存知かと思いますが、この「4分33秒」という曲は、その時間(4分33秒の間)「何の音楽も奏でない」という曲です。つまり曲であって曲でないという、極めて変な曲です。その解釈については色々と物議を醸している曲ですし、あまり定まった見解も見たことが無いような気がします。もちろん、芸術作品というものは、受け取った人が感じたことが優先されるべきだとも思うので、定まった解釈を決めること自体が野暮だとも言えて、今から私が言うことも、単なる私の一意見として聞いてもらえればいいと思います。ただ、私的には思っていたより明確な意味を感じたので、みんなが言うほど難しいことじゃないんじゃない?という気持ちもあってこれを書いています。


演奏が始まりました。何も弾かないのに演奏が始まるというのも妙な話ですが、演者は鍵盤のフタを開け閉めして楽章が始まったことを示しました。驚いたことに、その直後から、音が聴こえたのです。もちろんピアノの音ではありません。聴こえたのは会場の空調の音です。この空調の音は、演者が交代している曲の間の時間も、他の演者が弾いている時も変わらず鳴っていたはずなのに、その間は聴こえなかった音なのです。さらにその後には、会場にいる人が出す、服のこすれる音、息の音も聴こえてきました。これらももちろん、さっきまでもあったのに聴こえなかった音です。


ですから、ごく簡単に言えば、この4分33秒という曲は会場の音を聴く曲ということになります(というかWikipediaにもそう書いてあった…)。ただもちろん、それだけではあまり面白い話ではないですよね。会場の音を聴くということはどういうことか、という点にポイントがあるのだと思います。


会場の音を聴くということは、会場の音というものが存在しているということを知ることであり、それはつまり会場というものが存在しているということを知ることです。会場にあるのは、ホールそのものや、そこに来ているお客さんです。それらの存在を「演奏」として提示されて初めて気付くことが出来たのです。さらに言えば、その存在は、お客さんが「演奏が始まったので真剣に聴く体勢なった」ことによって初めて気付くことが出来たものなのです。演奏が始まって、実際には何も変化が起きていないにも関わらず、それまで聴こえなかった音が聴こえるということは聴衆側が変化したということであり、それは自分の存在に自覚的になるということでもあります。


つまりジョン・ケージはこう言いたかったのではないでしょうか。「音楽というのは、音楽だけで存在しているのではなく、それを奏でる空間や聴衆があって成立しているのだ」と。Wikipedia情報ですが、ジョン・ケージはこう言っているようです。「ケージは、この作品を気にいっている点として、演奏はいつでもできるのに、それは演奏されたときにしか生き始めないことをあげている」。これは「演奏する」ということは、演奏者一人で、あるいは脳内で完結したものではないのだ、と捉えることが出来るでしょう。


ただ、この「演奏には聴衆が必要だ」というのは、誰もが認める立場だとは私は思っていません。このことは、同時代を生きたピアニストであるグレン・グールドを対比に出すと、よりはっきり理解できるのではないかと思います。グレン・グールドは、ある時から演奏会という形態を否定して、録音したものだけを世に出すようになりました。良い音楽を作るにあたって聴衆の存在など不要だ!と考えたのです。演奏会において演奏者と聴衆は対等ではなく、聴衆は演奏者が間違えたらそれを咎めようとしている失礼な存在だとまで言いました。


この二つの立場の対立は、現在まで脈々と続いています。そしてこれは、音楽の録音という形態が現れたことで明確に意識されるようになったのでしょう。私が見るところでは、音楽における最大の革新と言えるものは歴史上二回あり、一回目は楽譜が発明されたことで、二回目が録音が発明されたことです。つまりこの話は、録音が出てきて音楽の在り方が見直しを迫られた時に、二人の人間(もっとたくさん居るでしょうが)が異なる見解を提示した、と解釈することが出来るでしょう。


では皆さんはどちら派でしょうか。例えば、以下のそれぞれの立場について、皆さんはどのような見解を持っているでしょうか。


a.演奏はミスするか分からないから素晴らしい
b.確実にミスしていないものを届けることが出来るならその方が良い


a.CDの音楽はライブ演奏を疑似的に切り取ったもので本物ではない
b.CDを聴くのはライブに劣る行為ではなく一つの独立した音楽体験


a.音楽は人間が奏でるもの
b.音楽は機械が奏でても音楽


a.聴衆の反応が見られるのが演奏の醍醐味だ
b.どこかで誰かが聴いてくれていることさえ分かればそれでも十分嬉しい


a.音楽は多くの人が評価するものに価値がある
b.自分一人が納得できる音楽が作れれば多くの人が評価してくれなくてもよい


a.ライブで周りの人と一緒に盛り上がる方が音楽を最大限楽しめる
b.一人の世界に入り込んで集中した方が音楽を最大限楽しめる


a.音楽は演奏者の動きや人物のバックグラウンドを含めて楽しむもの
b.音楽は音を聴くのが純粋な態度でその他の要素は邪魔なもの


いかがでしょうか。なかなか境界線を引きにくいところもありますが、それぞれaがライブ派(ケージ派)、bが録音派(グールド派)、と考えられるのではないでしょうか。こうしていろいろ並べてみると、絶対こっちだ!というものと、どっちか迷う、というものがありますよね。つまり、全面的にどちらかに寄っている人はあまりいなくて、その間ぐらいというか、場合による、というぐらいに思っている人が多数派なのではないでしょうか。とは言ったものの、私はかなりbの録音派だと自分では思っています。が、その話はまた別の機会に述べたいと思います。


少し別の観点としては、音楽鑑賞において、演奏者の動きなどは純粋な音楽の要素ではないと考えたとしても、その純粋な音楽はありふれたものになってしまったせいで、わざわざ音楽鑑賞をするならライブのような音楽以外の要素があるものを望むようになった、と考えることも出来ます。アーティストがCDで稼ぐのではなく、まずYouTubeでタダで見せて人気になったらライブで稼ぐ、という形態へシフトしているのはご承知の通りです。それは「音楽がお金と交換されなくなった」ことではあるかもしれないですが、「音楽を純粋に聴かなくなった」とまでは言えないだろう、つまり音楽の価値(お金以外でも測れるとすれば)が減じたということではないだろう、と私は思います。


以上で話は終わりですが、ここで改めて、4分33秒を演奏してくれた後輩には本当に感謝したいと思います。これはまさにCDでは意味が無くて、演奏会で聴かないと得られない体験だったのですから。