コンピュータに支配されるという事

(新ブログに、同じテーマで書き直したコンピュータに支配されるということは道具に支配されることの一種であるがあります)




よくSFなんかで「人工知能の人間への反乱」みたいなテーマがありますが、もっと身近な所で我々はコンピュータに支配されているなあと思うんですね。「支配」というのは半分本気で半分冗談で、それは悪いという意味を含むかどうかはよく分かりません。でもおそらくそれが良いか悪いかが、今後重要なテーマになってくるような気がします。


我々は日々新しい電子機器を開発して(されて)、それを使いこなせるように習熟する。それは、新しい機器を使ったら効率よく仕事なり遊びなりが出来るからです。でも、実際には習熟のためのコストもかかっている。だとすると、習熟にかかったコストを、効率が良くなった分で取り返して余りがないと、合計で見た効率は上がりません。そして新しい機器が登場するスパンが短くなるほど、習熟コストが減りにくくなってしまう。もちろん、すぐ誰にでも使える機器が出てくればいいんでしょうけども、それは成功しているのもあれば、失敗しているのもある(たくさん失敗している)という状況でしょう。


特に私は情報系の学問分野の人ですし、周りにいる人もそういう人や、あるいはビデオゲームなどで幼い頃から電子機器の扱いに慣れた人達ですので、そういうものが使いにくいという感覚が総じて弱いのですが、世の中にはびっくりするほどコンピュータが使えない人が居る。例えば私は母にPCの使い方を教える事があるのですが、それが本当に難しくて、いつも困りながらも重要な視点が得られる機会だなあと思っております。なおそういう時に、情報系じゃない「情報強者」の人は「情報弱者」を馬鹿にしててもまあいいのですが、情報系の人は自分への批判だと思って真摯に受け止めるべきだと私は思っております。


そして、コンピュータは道具ですが、道具には得意な事と苦手な事がある。その道具に頼らざるを得なくなれば、道具にとって得意な事をするように人間の方が促される。その事が、人間の行動を変えて、それが思考や認識すらをも変えていくことがあるのだと思います。それはもちろん、コンピュータに限らない話ではあります。


小説家のヘミングウェイは独特なシンプルな文体を生み出したそうですが、それはタイプライターを使ったからだという話を聞いたことがあります。書き直しを避けるために、間違わない範囲で文章を切っていくというような。まあ私はヘミングウェイにもタイプライターにも詳しくはないのですが、なんとなく分かる話ではあります。


携帯電話やタブレットなどで文字入力をする際には、書いた文章に続く文章の候補が提示されて、それでタイプ量を減らせています。それは、我々の文章が定型化されることに一躍買っていると考えることが出来るでしょうし、そうでない文章を書くことを億劫にしているとも言えるでしょう。


文字入力の話ばかりですが、日本語の漢字変換機能というのも色々な事を我々に促しているなと思っていまして、例えば、少し砕けた言い方として「来りゃいいんだけど」って書きたくても一発では「来」が変換されないから「来ればいいんだけど」と打ち直してしまう。そんなような事があると次第に、言葉遣いが綺麗に(笑)なって行ってしまうと思うんですね(大問題?)。あと、方言を使ってる人なんかも、標準語にならざるを得ないのではないでしょうか。


更に考えたのですが、変換ミスで違う漢字を当てちゃうことってたくさんありますよね。あれ、ミスの事もありますが、そういう候補が表示されることで、我々はつい「ダジャレ」を書いてしまうのではないでしょうか。とすると「我々は脳をコンピュータに支配されてダジャレを言わされている」と言えなくもないのかもしれません(笑)。


ここで、実はそもそも「言語」こそが、思考を支配している「道具」なのだろうとも考えられます。そんな話の続きも思いついたらしてみたいですね。


(参考)


上記のような事を考えていたのですが、今日見てぶったまげた記事。

「脳に電極を挿すより魔法を使いたいんですね」

http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar463252


"「人間がコンピュータのミトコンドリアなのか、それともコンピュータが人間のミトコンドリアなのか」"


発想のスケールが違いました(笑)。なるほどなあ。