無理という言葉の話

ワタミ「途中で止めるから無理になるんです。途中で止めなければ無理じゃ無くなります」
村上「いやいやいや、順序としては『無理だから→途中で止めてしまう』んですよね?」

ワタミ「無理じゃなかったって事です。実際に一週間もやったのだから。『無理』という言葉は嘘だった」
村上「いや、一週間やったんじゃなくやらせたって事でしょ。鼻血が出ても倒れても」
ワタミ「しかし現実としてやったのですから無理じゃなかった。その後はもう『無理』なんて言葉は言わせません」

一応、ワタミ社長の言ってる事のうち、「実際できたんだから無理じゃなかった」という言葉は論理的に正しい。そして、これは「やってみなければ出来るかどうか分からない」という意味では、一般的に支持されている論理だ。「努力というのは成功した時に成されたこととみされるもの」であるし(成功していない限り努力は足らないと判断される)、「問題解決能力とは問題解決出来た時に備わっていたとされる能力」のことなのだ。それと同じで、無理というのは出来なかった事について言われる言葉なのだ。


「出来ないという事を証明する事は難しい」って聞いた事あるでしょ。悪魔の証明というやつです。


しかし、それがその後も継続可能かどうかは立証されていないので、後半のセリフは論理的にもおかしい。


もちろん、倒れてもやらすのが良いとは全く思っていないよ。

死ぬまで働くな

自分が同じ立場でどう思うかはちょっと自信ないけど、基本的に死ぬまで働かないで逃げるべきだし、それで失う仕事なんて生き死にに比べたら何でもない事だという認識を持つべきだ。


自分が死にそうだということが分からなかったのなら仕方がない。でも今回話題になった人は日記に「助けて」とか書いてるので、死にそうだという自覚があったはずだ。


個人的には、ワタミ(等のブラック企業)へのバッシングばかりで良くないと思っている。酷い仕打ちをされても頑張って働いてしまう人がブラック企業を増長させているのだから、頑張って働く事をやめて企業に抵抗しなければならないという話とも言えるはずだ。その選択肢が本当はあるのに、無いと思ってしまっているのが問題なのだ。そしてそれは、多分に周りの人のせいでもある。団結してストライキしなければならないのに、自分が嫌がったことを他の人がやってくれてしまうのでは抗議にならない。

昼間っからワタミの会長叩いてる時間とブラックを憎む情熱があるなら、まず、君が今日、定時で帰れ。

俺もな(学生だけど)。


極端に言えば、もっと、自分が生きる為なら、人にいくら迷惑をかけても良いとか、社会的に馬鹿にされてもそんなもの知るか、という気持ちを持つべきだ。

環境を自分で変えること

自分のいる環境というのは自分を含む人達で構成されているのだから、自分の行動によって望みに近づけていく事が出来る、という感覚が無い人が多いと思っている。環境というのは既にあるもので、手出しできない物だと考えているようだ。自分以外に「環境を作った人」が居るはずなのに。いや、自分も知らず知らずのうちに環境を作っているはずなのに、と言った方が性格か。


もちろん、それは結構コストのかかることなので、逃げて他に居心地のいい居場所があればその方が楽だ。別にそういう選択でも良い。


私は多分高校3年ぐらいの頃にようやくそう思えるようになったので、まあずっとそう思えない人というのが居てもおかしくは無いと思うが、そういう人が逃げられず死んでるので、もっとそういう事を言った方が良いのかなと思う。


あるいは「環境を変えた事が一度もない」と感じている人が結構多いという事なのか。