自分がいつ犯罪者になるか分からないという事

「自分が加害者になる事」あるいは「自分が加害者である事」を想定できない人が多過ぎる気がするので,その話を書く.twitterでこんな話が回ってきた.全文引用する.

> 犯罪者と同じで、「更生したから過去は許してくれ」という時点で更生してねーんだよな。更生した人間を許さない人間が非難される空気自体が新たな暴力なんだよな。一生許されなかろうが贖罪し続ける事だけが更生。DQNも犯罪者も死んだ時にしか更生とは言えない。

これが「人気のツイート」として紹介されて,私の目のつく所まで回ってきた.賛同する人が多かったという事だ.私としてはそういう人達の中で生きているということを「怖い」と思う.怖いので,自分の周りだけでも安全な領域を広げたいので,こうして書くことにした.


人類最古の部類の法律として,ハムラビ法典というのをみんな知ってると思う.「目には目を」というやつだが,これが,報復を推奨するものだとよく誤解される.実際はそうではなく,罰の上限を決めるものだ.それまでは相手が死ぬまで無限に続いてしまっていた報復合戦を終わらせるため,自分がした事と同じ事までしか償わなくていい,ということを決めたのだ.「目には死を」だったのを「目には目を」にした事に意味がある.


罰を受けても罪が消えないならば,人の罪は一生消えない.どういう罰を受ければ罪が終わるのかを第三者が決めてくれるのが法律というものである.そういう意識が,多くの人にない.これだけ歴史が進んだのに,ハムラビ法典以下の法意識(人権意識と言ってもいい)しかない.そういう人が多過ぎるし,それではダメだと教えてくれる人もいない.


実際の所,現代において犯罪を犯した人は,罰を受けた後も世間から白い目で見られるとは思う.でもそれは,我々人間が未熟だからであって,本来望ましい事ではない.人間なので未熟なのはしょうがないが,未熟のままでいいという態度は良くない.「人の罪は一生消えない」と他人に思われる事を想定して自分に悪い事をしないようにと言い聞かせるのはいいが,「人の罪は一生消えない」と罪を犯した人に言うのは間違いだ.自分が許せば済む事だからだ.他の誰もが許さなくても,自分だけは許さなくてはと思わなくてはいけない.その結果許せないのは仕方ないが.


「犯罪するような奴は死ね」という雰囲気が蔓延している.よく見かける,ネットでの犯罪晒し上げが良い例だ.法の定める罰より大きな罰を皆が望んでいる.一度罪を犯したら二度と社会復帰できないので,それにより我々は犯罪をしないように細心の注意を払っている.それが,日本の犯罪率が低い事の正体であるように思う.それ自体は悪い事とは言い切れないが,では罰は大きければ大きいほどいいのだろうか.罰の大小には意味があり、その大小を定めたのが法ではなかったのか。


罰の大きさは,自分が罰を受ける立場になる可能性も考えて決めるべきである.もし自分が犯罪を犯してしまったとしたら、弁解の余地は当然欲しいし、できれば更生の機会を与えて欲しい。だからそれを他人にも認める。我々はいつ自分が犯罪者になるか分からない存在だからだ。人を許すのは自分が許されるためでもある。


…と書いたが、結局それがそう思えないから現状のようになっているのだろう。実際それは想像力というか感覚のレベルの話なので、分からない人に説明しても本当には分からないのかもしれない。他の例で考えると、これは障碍者に優しい社会だとか、高齢者に優しい社会などを考えることと同じ発想である。自分もいつ障碍者になるか分からないし、高齢者には何もしなくてもなることが出来る(途中で死ななければ)。あるいは病気の人はどうか?鬱病の人に職場の人が冷たくしていたら、この職場にいるのは怖いと思わないだろうか?安心して生きるには、そういう人にも優しい世界が必要だ。もちろん、どこまでもコストをかけていいわけではないし、その兼ね合いで決めるべきことなのだが。


ここまでで書きたかったことの半分終わり。次回(笑)は自殺の話をしようと思います。