人間は因果を見出し過ぎる

(新ブログに、改定したリメイクがあります。)


ことわざに「二度ある事は三度ある」と「三度目の正直」という二つがあって「結局どっちやねん」という突っ込みをみんな入れた事があると思う。しかし、「結局どっちやねん」と言いながら、こういう言葉を言うのは皆好きである。どっちやねんと思ったのならどちらも使わないのが真面目な態度なのだろうが、実際は、その場その場で都合の良いように両方使うのが人間の普通の姿である。「人間は疑う事より納得する事の方が好き」とも言えるかもしれない。


これは、人間は「因果を見出す」ように本能に刻まれている、あるいは、因果を見出すことが生存に有利なように働いて、その性質を強く持つ者が生き延びてきたという事ではないだろうか。その結果、多くの場合で人間は「因果を見つけ過ぎてしまう」ようになっている。(しかし残念ながらこの文章もその一つだということになるのだろう)


何かの現象の原因を「神様」とか「幽霊」のせいだ、と言うのだって、よくよく考えればそれは何も理由を説明したことにはなっていないはずなのだが、そういう言い方をすれば何か理由が付いたような気になって納得してしまう事がある。理由を見つけられないことに人は堪えるのが難しく、そのためには架空の存在さえ作りだしてしまう。そのような架空の存在は、因果を見出す能力の副産物とも言える。




この因果的知見というものは、自分が生きる範囲が狭ければ狭いほど、生きる時間が短ければ短いほど、たくさん持つ事が出来る。なぜなら反例が現れにくいからである。つまり間違っていると気付く機会がないからである。しかしそれは別にその知見が悪いということではないかもしれない。なぜなら、その狭い世界で常に成り立つのであれば、それはそれで有用だからだ。「他の世界で通用しない」ということは「その世界で通用している知識が役立たずである」ことを意味はしない。それに、ほとんどの場合において「その知識は狭い世界でしか役に立たない」といくら言ったって、「他の世界でも通用する素晴らしい知識」なんてのは用意されないのだから。


例えば、ほとんどのIQテストの問題は、解答を得るには前提不足である。法則性を見つける問題は、実際には他の法則を無数に考える事が出来る。その中の一つが正当な法則であると結論付ける事は通常出来ない。であるから、回答者はその見つけた法則性が唯一絶対のものであると信じ込む事が出来ないと問題に答えられない。一つしか法則が浮かばないのは、出題者の考える「世界の複雑さ」と、回答者のそれが一致しているからである。その意味でも、テスト問題というのは、出題者以上に賢い人(複雑な世界を想定出来る人)を正当に測る事は出来ない。


別の見方をすれば、ある知識の正しさは、それが成り立つ状況とセットで語られるべきものであるということだ。「真面目に頑張った方がいいよ」というアドバイスは、ちゃらんぽらんな人には良いアドバイスだが、既に真面目にやっている人に言えば鬱になる。どうしても真面目に頑張ってしまう人には「少し肩の力を抜けよ」と言うべきである。そのときの状況での多数派に向けてバランスを取るように言われた言葉を、状況が変わっても同じように言うのでは余計にバランスを崩してしまう。


「唯一絶対の正しさなどない」という言葉は、どこにも正しさが無いと言っている訳ではない。時と場合によると言っているのである。時と場合によるという事は分からないということではなくて、時と場合が決まれば正しさがあると言っているのである。




さて話を戻して「因果を見出し過ぎてしまう」ことについて。これまでの人間の普通の生活の範囲内というものは、因果を見出し過ぎるぐらいがちょうどよいぐらいの狭さだったのであろうと思う(広い狭いは相対的なものだが)。「一を聞いて十を知る」という言葉がある。頭の良い人についてのことわざだが、これが成り立つのは、狭い範囲で生きているからである。一つの事を聞いているのだから、知る事が出来るのは本来一つである。それ以上の事を知る事が出来るのは制約条件があるからだ。この制約条件が世界の狭さである。


人間の脳は、眼からの2次元の情報から、脳内に3次元の空間を構成する事が出来てしまう。これは明らかに無理をしているのだが(これを「不良設定問題」と呼ぶ)、色々な制約、例えば「光源は上にある」といった制約を用いてこの問題を解いている。太陽や月はいつも上にあり、原始世界にはそれしか光源が無いのだから、他の場合を考慮しなくてよいとする。このようにして問題を単純化して解いているため、光源が下にあるという状況では認知に失敗してしまったりする(「Hollow face 錯視」で検索してみよう)。元々解けないはずの問題を解くには無理がかかるため、想定していない状況を突き付けられると盛大にすっ転んでしまう。これがいわゆる「錯視(錯覚)」である。




多くの人は「一を聞いて十を知る(知ってしまう)馬鹿」である。過去に一つしかない事例を一般化したり、「三人居たらみんな」と思うような態度がそれである。より普遍的な、あるいは、多様な状況に対応するためには、その「因果を見出す」自分をぐっとこらえることが必要な場面が多くある。これも、バランスの問題と言ってもいいかもしれない。因果を見出さない人には因果を見出せと言わなくてはならないが、因果を見出し過ぎる人には見出し過ぎるなと言わなくてはならない。


しかし普遍的な知識しか使えないというのでは、解決できる問題は非常に狭くなってしまう。普遍的知見の代表である科学的知見は、ほとんどどのような状況でも成り立つがゆえに「正しい」とされる。しかし現実の問題を解決するには、それを絶対視するのではなく「どのような状況でも成り立つ知識」と「限定的な範囲で成り立つ知識」を、それぞれの限界を知りながら使うことが必要なのだろう。




最後に余談を。人間の因果(知識と言ってもいいか)を見出す能力は、人間が生きる範囲を見る能力に依存しており、そういう範囲の世界を最適化するようになっている。現在問題になっているような地球規模の問題のようなものはおそらく人間の問題解決能力の範囲外であるので、そのレベルの問題を解決して現実を最適化したいというのが、いわゆるビッグデータの研究の目指すところである。